社説見過ごせぬ“戦後”否定 いま 憲法を考える
 敗戦後の焦土で日本人は、それまでと全く違う価値観を見いだしました。最近の憲法論議の中に目立つ、それを否定する視点を見過ごさないようにしましょう。
 「草案にある“臣民の権利”の条項はいらないのではないか」
 「それは憲法および憲法学に退去を命ずる説だ。そもそも憲法を設ける趣旨は、第一に君権(公の権力)を制限し、第二に臣民(国民)の権利を保全することである」
 あるシンポジウムで樋口陽一早大教授がこの会話を披露すると、会場に静かな波紋が広がりました。一八八九(明治二十二)年に大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法ができる直前の会話だったからです。
 ■伊藤博文が嘆く?低次元
 最初の発言は森有礼・文部大臣、反論は伊藤博文・枢密院議長。藩閥政治家の巨頭で権力主義者として知られる伊藤でさえ、権力者を制約し、国民の権利を守るのが憲法の役割だと言い切っていることが、聴衆には意外だったのです。明治の政治家の高い見識を示す逸話です。
 それに引き換え、昨今の憲法論議の次元の低さはどうでしょう。
 「もっと現実に即した憲法にしよう」「権利主張ばかりがはびこっている。国民の義務や責務をはっきり書くべきだ」「公のために基本的人権を制限できることを明記しよう」−地下で伊藤が「分かってないな」と嘆いているかもしれません。
 「愛国心の醸成」や「家庭を守る責務」を書き込もうなどという自民党内の声は、「およそ立憲の政において(立憲政治の下では)、君主は人民の良心に干渉せず」という言葉を想起させます。
 こちらは伊藤の下で明治憲法を起草した井上毅の発言。「憲法で道を説く」ことの誤りは明治時代でさえ認識されていたのです。
 もっとも、この話には続きがあります。冒頭の話し合いで森はこう再反論しました。
 ■天然自然に所持する人権
 「およそ権利なるものは、人民の天然自然に所持するものにして、法により与えられるものにあらず」−国民が生まれながらにして持っている基本的人権をあらためて憲法に書くと、書き方しだいで権利が消長してしまう。だから憲法には書くべきではない、と言ったのです。
 憲法に規定すべきかどうかはともかく、森の再反論は基本的人権に関する近代思想の神髄です。日本を含め各国の近代憲法には人権規定が盛り込まれていますが、歴史を振り返ると森の指摘の鋭さに気づきます。決して彼の取り越し苦労ではなかったのです。
 実際に伊藤が中心になってつくった明治憲法では、国民の権利に「法律の範囲内で」という留保がつき、そのような統治構造を政治家や軍人が利用して暴走、人権をないがしろにし、無謀な戦争に突入しました。そしてあの敗戦です。
 こうした歴史を踏まえて制定された日本国憲法は、戦後的な新しい価値観、新秩序の宣言でした。だから「新憲法」と呼ばれたのです。
 前文や第九条の平和主義は、軍事を最優先の価値とはしないことの表明でした。
 人権保障とそれに沿った立法は、一人ひとりの個性を生かしながら全体の調和を保つ“粒あん社会”を目指します。自分を殺して「個」を感じさせない練りあんのような社会では、異論が封じられ、国家や社会共同体が誤った方向へ進むのを止めることができません。
 こう考えてくると、自民党が「憲法改正草案」ではなしに「新憲法草案」をつくろうとしていることの危険性を理解できるはずです。新憲法起草委員会がまとめた要綱には、現憲法の手直しはおろか、「戦後的価値観の否定」が随所に表れているように見えます。
 交戦権を認める先に見えるのは、軍事を最優先する価値観の再登場です。勝つことを目指さない交戦はあり得ませんから、人権は戦勝という国家目的に奉仕させられます。
 愛国心の押しつけは、文字通り井上毅の否定した「人民の良心への干渉」です。
 義務、責任を強調し権利の重みを相対化しようとするのは、伊藤博文さえ意識していた憲法の役割を無視し、戦前の“練りあん社会”に戻そうとしているかのようです。
 「新憲法制定」とよく似たニュアンスの「創憲」を唱える民主党の議員は、自らの発想の危うさに気づいているのでしょうか?
 それどころか戦後の否定に同調する人が同党には多いのではないでしょうか。
 ■道はおのずから明らかに
 このほかにも政教分離の緩和が計画されるなど、近代国家に共通する原則が、次々と崩されようとしています。
 「復古調」という情緒的詠嘆で終わらせてはなりません。さまざまな憲法論議を、明治憲法下の価値観と現憲法下の価値観に照らして分析、評価しましょう。そうすることで、選択すべき道はおのずから明らかになるでしょう。(東京)

 憲法論議「権利と義務」 見え隠れする公の優先 '05/5/4
 憲法論議の焦点の一つは、「国民の権利義務」に関する「新しい人権」の取り扱いである。憲法ができて六十年近くたつ。価値観や生活意識が変わる中で、現行憲法の制定当時には想定されていなかった権利として、例えばこれまで明文規定のない環境権やプライバシー権などを、新たに憲法の規定として追加するべきか否かの議論である。
 衆院参院の両憲法調査会が五年間の国会議論を集約した最終報告書は、それぞれ「新しい人権」を明記した。衆院報告書は「多数意見」、参院も「自由、民主、公明三党でおおむね一致のすう勢」として明記の方向を出した。その論拠は、想定されなかった権利がその後に認められたこと、憲法に明記されると人権の保障に有益になる―などである。
 だが、学識者らの議論は多様だ。新しい人権も一三条の「幸福追求権」に含まれないか、それには限界があるのか。今の人権すら守られていないのに、その実現が先ではないか、との声もある。衆院報告書は、明記を要しない意見として、憲法の人権規定の「懐の深さ」を挙げ、大切なことはその精神を具体化する「立法措置だ」と併記している。
 今、本当に必要な人権への措置とは何か、慎重に見極めることは大切だ。新しい人権の明記が改憲全体の流れを誘い、九条改正などの下地になることへの危惧(きぐ)がなくはない。
 一方、懸念されるのは、権利と表裏一体の関係として、憲法に国民の義務を増やす考えが出ていることである。衆参両院は義務強化の是非について意見は分かれたが、自民党の新憲法起草委員会の改憲要綱は「国民の権利義務」に「責務」という新しい考えを導入。義務より緩やかな概念とはいえ、国防や社会的費用の負担、家庭を保護する責務などを国民に不断の努力として求める。
 しかし、国を規制すべき憲法に、国民の責任や規範まで規定するものではない。国家統制色が強い要綱に国民の共感が得られるか疑問だ。
 「国の意向」を色濃くしている規定は他にもある。衆院報告書で、メディア報道に反論したり、説明を求めたりできる「アクセス権」を明記する意見が盛り込まれている点だ。それを明記すれば取材や報道を制約する根拠を与え、「知る権利」は損なわれる。国や政治家に気に入らない報道を規制する恐れは十分で、国家権力の意向に沿うようにメディアを縛る規定である。自民党要綱に盛り込まれた、表現・結社の自由の制限の明記と通じる。国家統制色への傾斜は危険でさえある。
 衆院報告書は、憲法前文に「わが国固有の歴史、伝統、文化」の盛り込みを多数意見とした。自民党要綱も「日本の国土、自然、歴史、文化」の記述を追加し、「愛国心」まで入れる。しかし、国を愛する尺度などは人によって一定でない。一律に規定することに違和感を持つ国民は多いだろう。大いに議論が要る。
 社会の規範が緩み、近隣諸国などとの緊張感が高まるほどに「統制」や「国家主義」の色合いが強まる。しかし、憲法はあくまで国家権力を制限して、国民の権利を守るために制定された。その基本は見失わないようにしなければならない。(中国新聞

 社説『活憲』が先だろうに いま 憲法を考える
 憲法古着説が言います。現実に合わないから改憲を、と。ちと妙です。憲法をもっと活(い)かす、いうなれば「活憲」で現実を改めるのが先決の日本社会なのでは。
 本紙に連載中の「逐条点検・日本国憲法」が好評です。
 政界の「論憲」のさまが報道されてきたのに合わせ、連載は毎回一条ずつ条文を紹介し、論点も含めてわかりやすく解説しています。
 「条文をきちんと読んだことないから勉強になる」という反響が多いと聞いて、人々の、憲法を読む機会の少なさを思います。学校でも詳しくは教わらなかったでしょうし。
 ■「自己ちゅう」の果てに
 この憲法を持つ国でどうしてこんなことが…と考え込まされる出来事が続きます。
 「自己ちゅう」のはやり言葉を聞いて久しいですね。自分中心。で、周りが見えない。他者の痛みを考えない。察しようともしない。
 それを物語る姿や事件、失政を挙げればキリがないでしょう。
 殺人、心中、詐欺、虐待、暴行、いじめ、獣欲犯罪…。凶悪犯の低年齢化と治安悪化を嘆く声が増え続けています。人命を軽んじ、他人の権利や自由、幸せを尊重しない独善が社会に増殖しています。
 政界もです。関心と思考が己の、せいぜい身辺に縮んで大局を見ず理念を語れず、政治家が小粒化して次の首相候補も見当たらない。
 自己ちゅうに徹するのは、生き方として面倒少なく安易でしょう。外交だって、対米追随を国策・国是にしておけば気楽なもの。かくて、米国の期待要請に応え、自衛隊イラクへ。さらには自衛隊を軍と改称し海外での戦闘も可能にしよう、と改憲をめざす自民党です。
 日米同盟が過大に超基軸化、自己ちゅう化するほど、ほかが軽んじられ、中国、韓国との間柄がまずくなる一途です。対中・韓の外交手抜き、両国が寄せる要望の軽視でさまざまな摩擦が生じています。
 首相の靖国参拝は、首相の頑固、自己ちゅうの表れか。中韓の痛みを思うなら、この参拝問題はいかようにも処理できるはずです、歴代首相のように。靖国や歴史教科書への近隣国の批判は、加害と被害の歴史の延長上にあります。その被害側の心情にはよくよく心しないと。内政干渉と反発するだけでは、これまた自己ちゅうとしかみなされますまい。
 ■政治の怠慢、責任逃れ
 生命や自由、人権をたっとぶ憲法に背いて今、社会、政治にこうも問題が多いのは、戦後日本人の生き方に因を求めることができましょう。
 憲法をたな上げしがちな政治の下で、とにかく自分と家族の飢えを満たし物を求める、いわば私欲の充足が国の復興と成長の原動力になりました。まず自分が豊かに、と励むうちに、自分さえ豊かならよしとして他人が見えなくなったようです。
 自分中心は視野を狭くし、物質的豊かさを追って心貧しく、せつなの安楽に流れ、理想理念を嫌う。大局観をなくし、情報洪水に遭えば情緒的、断片的材料に頼って判断力は落ち、幼児化して…。
 大判断を米国に委ねて経済大国・政治小国化した図もこの写し絵か。
 国会の論憲では、憲法の三原則、平和主義・国民主権基本的人権尊重が「定着した」と結論しましたがウソでしょう。定着までしていないから問題が多発しているのです。
 ならば、どうしたらいいか。
 憲法を定着させること、活かすことです。「憲法の理念に現実を一歩ずつでも近づけるのが政治だ」と作家の小田実さんが言っていますが、全く同感です。
 念を押します。諸問題の因は憲法理念を実現する政治がされていないからです。政治家は怠慢の責任逃れをしてはいけません。
 憲法と一体の教育基本法の前文にある「個人の尊厳を重んじ」の言葉。これをやり玉に「だから身勝手な個人主義がはびこり他人も傷つけるのだ。法改正して愛国心、日本の伝統、道徳重視をうたおう」と主張する面々は、個々人すべての意義、価値を認める個人主義を、利己主義と取り違えています。教基法が「自他の敬愛と協力」を教育方針に掲げているのも見落としている。憲法の理想実現は「根本において教育の力にまつべきもの」と述べる教基法もまた妨げどころか、活かし切らなくてはならない法律のはずです。
 ■他者の痛みに思いを
 プライバシー権、環境権、知る権利といった「新しい権利」を盛る改憲・加憲・創憲論がありますが、これら権利は現行一三、二五、二一条などの適用で保障されるという判例が活着ずみなのです。憲法の時代遅れはありません。
 新権利をうたう改憲、いいね、と軽やかに考えて、実は九条が主眼の改憲が成る時、どんな危険が後世を覆い、他者・近隣国に痛みとなるか、思いをはせたいものです。
 憲法とともに、近現代史を学び直す必要もありましょう。「学校では時間切れで教わらなかった」という人が少なくありません。ゆゆしい問題ですね、それも。(東京)