<校内暴力>カッター見せ、椅子振りかざし キレる小学生 (9月23日毎日新聞)
 連日のように教室が騒乱状態に陥り、男性教諭たちが乗り込んで児童を“鎮圧”する。児童がカッターナイフで級友の鉛筆を切り刻み、切れ味をみせびらかす――。文部科学省の調査で、小学校の荒れが浮き彫りとなった。大阪府や神奈川、埼玉県など大都市部で目立って増えている。小学生はなぜキレやすくなっているのか。
 千葉県北部の小学校の4年のあるクラス。休み時間、ささいな口論から児童が暴れ出す。鉛筆や教科書を手当たり次第投げつけ、椅子を振りかざす。教室はたちまち大騒ぎとなり、学校が事前に決めた抑止役の男性教諭たちが駆けつけ、男児数人を押さえつける。
 50代のベテラン女性教諭が担任だが、4月当初から授業は崩壊。5月の連休以降はほぼ毎日“暴動”が起きた。保護者有志数人が授業を監視する事態となり、学期途中で38人を19人の少人数2クラスに分けた。
 ある保護者は「ありえないことが起きている」と嘆く。暴れる児童は決まっている。学校にカッターナイフを持ち込む。教師に悪態をつく。級友の肩にかみつき、1週間のけがを負わせたこともある。児童には2〜3人が同調する。保護者会に児童の親が出ず、解決の糸口はない。担任の家庭訪問に親は「家ではいい子。暴れるなんて考えられない」と繰り返す。
 東京都多摩地域の小学校。「今の小学生の校内暴力は、中学生とはまるで質が異なる」とベテラン教諭(55)が言う。この学校でも3クラスが崩壊している。「中学生には大人への反抗心という要素もあるが、小学生の校内暴力は授業中に我慢ができず立ち歩くことの延長で、むずかる赤ん坊と同じ。まったく社会性がない」
 小学生の暴力行為の最も多かった大阪府は320件(前年度比31%増)。次いで神奈川県318件(同34%増)▽兵庫県173件(同2%減)▽埼玉県127件(同164%増)――で、小学校の荒れは大都市部で多く、伸び方も著しい。【井上英介】
 ◇識者分析 背景に「少子化」「週5日制」
 小学校が荒れている背景について、識者の見方はさまざまだ。
 「声に出して読みたい日本語」の著者、斎藤孝・明治大教授(教育学)は「少子化核家族化で、人間関係の絶対量が不足しているのではないか。学校で感情をコントロールする訓練が必要だ」と話す。
 フリースクールの草分け「東京シューレ」の奥地圭子理事長は「数年前から小学生の暴力は増えていると感じていた。少子化で子どもに対し、親や教師を含めた多くの大人が期待をかけるようになり、そのことが子供たちのストレスや緊張になっている」と見る。
 教育評論家の尾木直樹・法政大教授(臨床教育学)は「ゆとり教育の反作用で、学校週5日制のもと、以前より詰め込みがひどくなり、子どものストレスは高まっている。ささいなことが対教師暴力につながるのではないか」と指摘している。【千代崎聖史、井上英介、高島博之】
 不登校の高校生6万7500人
 全国の国公私立高校の不登校生徒数が04年度6万7500人に上ることが22日、文部科学省の調査で分かった。高校生を対象とする不登校調査は初めて。在籍者に占める比率は1・82%で、不登校の生徒の36.6%に当たる2万4725人が退学している。小中学校も含めた不登校者の総数は19万817人。

 小学生の校内暴力、最悪の1890件…対教師32%増 (2005年9月22日読売新聞)
 全国の公立小学校で児童が昨年度に起こした校内暴力は1890件に上り、1997年度の調査開始以来、過去最悪となったことが22日、文部科学省のまとめで分かった。
 中でも教師への暴力が3割以上増えており、件数が減少に転じた中学校、高校とは対照的な結果となった。
 文科省は「ささいなことで短絡的、突発的な暴力に走るケースが目立つ」と暴力行為の“低年齢化”に警戒感を強め、各教育委員会に指導強化を求めている。
 調査は、全国の公立の小学校2万3160校、中学校1万317校、高校4093校などを対象に実施。
 それによると、小学校で発生した校内暴力の件数は2年連続の増加で、過去最多だった前年度の1600件を18・1%上回った。特に、教師への暴力は前年度比32・8%増の336件に上り、各教委からは、「運動会の練習中、『整列』の指示に反発して教師をけった」(小6男子)、「あいさつの仕方を指導した担任にいきなり殴りかかった」(小5男子)など、衝動的に暴力に走った「キレる」ケースが報告された。
 また、「悪口を言われたと思って1年生の顔を殴った」(小3男子)などの「児童間暴力」が、前年度比16・2%増の992件。「着席するように教師に指導されて腹を立て、教室の窓ガラスを割った」(小3男子)などの「器物損壊」も、14%増の544件だった。
 これに対し、中学校での校内暴力件数は5・5%減の2万3110件、高校は3・7%減の5022件で、いずれも前年度より減少に転じた。

 小学生の校内暴力、2年連続増 「対教師」急増 文科省(2005年09月22日朝日新聞
 全国の公立小学生が04年度に学校内で起こした暴力行為は1890件で前年度比で18%増になっていることがわかった。03年度調査でも27%増で、2年連続大幅増となった。文部科学省が22日、公表した。このうち、子ども同士や器物損壊の校内暴力は10%台の増加だったのに対し、教師に対する暴力は336件の過去最多で、前年度の253件から33%増となった。中高生の校内暴力は減少し沈静化の傾向が見えるのに、小学生の校内暴力には歯止めがかかっていない。
 この調査は、文科省が毎年すべての公立小中高校を対象に、各教育委員会を通じて実施しているもので、今回は04年度に起きた子どもの暴力行為やいじめなどの発生件数をまとめた。
 文科省によると、小中高生全体の校内暴力の発生件数は、対前年度比4%減の3万0022件。内訳は、小学生の1890件(18%増)のほか、中学生が2万3110件(6%減)、高校生が5022件(4%減)となっている。
 中高生に比べて突出して増加している小学生の校内暴力を細かく見ると、子ども同士の暴力が最も多く992件(前年度比16%増)、次いで器物損壊が544件(同14%増)、対教師暴力が336件と続く。対教師と子ども同士を除いた「対人暴力」は18件(13%増)だった。
 このうち、最も伸び率の高い「対教師暴力」は、(1)教師の胸ぐらをつかむ(2)いすを投げつける(3)故意にけがを負わせるなど、一定水準以上の暴力行為について学校から報告が上がったものをまとめたものだ。また、校内暴力で警察に補導された小学生の数は04年度が24人。02年度の2人、03年度の11人から急ピッチで伸びていた。
 校内だけでなく、学校外での暴力行為も中、高が減少したのに小学生は19%増の210件だった。
 一方、都道府県別では、校内外合わせて小学生の暴力行為が増加しているのは26都府県あった。
 小学生の対教師暴力の件数増加について文科省は「小学校では学級担任が子どもの問題を一人で抱え込み、学校全体や関係機関と一緒に取り組めない。結果的に問題が放置され、同じ児童が暴力を繰り返すケースもあるのではないか」と分析している。
 一方、同時に調査したいじめについては、公立の小中高校と盲・ろう・養護学校全体で2万1671件で、03年度に比べて7%減った。高校と盲・ろう・養護学校ではやや増加したが、小学校は5551件、中学校は1万3915件でいずれも前年度比8%減だった。
 今回、初めて国公私立高校の不登校者数を調べたところ、全体の1.8%にあたる6万7500人だった。小中学生は全体の1.1%にあたる12万3317人いた。
 一方、公・私立高校の中退者数は7万7897人で、82年度の統計開始以来最少だった前年度をさらに3902人下回った。

 前原氏会見「改憲、自民と協議」 公明、はや大連立を懸念
 民主党の新代表に選ばれた前原誠司氏(43)は十七日、都内のホテルで就任の記者会見に臨み、憲法改正について「民主党は改正が必要だという立場だ。改正を必要としている政党としっかり議論する中でまとめていく」と述べ、自民党とも協議する考えを示した。憲法自衛権を明記することを持論とする前原氏の代表就任とあって、会見では憲法改正に関する質問が相次いだ。
 前原氏は「私の従来の意見は(侵略戦争を放棄した)一項はいいが、(戦力不保持や交戦権否定を定めた)二項は削除し、自衛権を明記するということだ」と言い切った。
 ただ、党の憲法改正案の下敷きとなる「憲法提言」の取りまとめなど具体的なスケジュールについては言及せず、「民主党として国のあり方について議論を積み重ねる中でまとめる」と述べるにとどめた。九条改正に慎重な旧社会党系グループなどに配慮したものとみられる。
 前原氏は会見では終始、言葉を選びながら話した。菅直人元代表とわずか二票差だったことについて「それだけ多くの方々が菅氏を応援されたことはしっかり受け止めなくてはならない」と述べ、挙党態勢づくりに配慮していく考えを強調した。一方で党人事について「党内グループのバランスをとる考えはない。適材適所だ」と述べ、中堅・若手の登用に含みを持たせた。
 日本経団連からの献金について「自民党を支持し、われわれから見れば偏った評価をしている団体から献金をもらうべきではない。再検討したい」と述べ、献金を辞退する考えを表明した。ただ、企業献金については透明性が確保され、利益誘導にならないという基準を満たせば従来通り政治献金を受けるとの考えを示した。
 前原氏の代表就任について、現行憲法に新たな条文を加える「加憲」を唱えながらも、憲法改正の動きが加速することを警戒する公明党からは「大連立になるのではないか」と懸念する声が早くも漏れている。(産経新聞

 当選者の72%が9条改正に賛成 民主ばらつき、自公に溝
 衆院選の当選者アンケートによると「全面的な憲法改正に賛成」が46.7%で最も多く、「9条も含めた部分的な改正に賛成」の25.4%が続いた。戦争放棄と戦力の不保持を定めた9条改正派は合計72.1%で圧倒的多数派となった。
 党派別にみると自民党は回答した206人中、133人が全面改正に賛成、54人が9条を含む部分改正に賛成し、「9条以外の部分的な改正に賛成」と「改正反対」は合計わずか7人。
 民主党は30人が全面改正賛成で、9条を含む部分改正賛成は23人。9条以外の部分改正に賛成が18人、改正反対が6人、「どちらとも言えない」も17人おり、ばらついた。公明党は全面改正派は1人もおらず、自民党との立場の違いが明確になった。
 首相の靖国神社参拝について賛成は32.3%で大半が自民党。「現時点での参拝に反対」「反対」は合わせて47.2%で、慎重な対応を求める声が多かった。
 集団的自衛権行使に関しては「認めるべき」が16.6%。「地域や目的を限定した上で認めるべき」が47.2%、「認めるべきでない」は18.5%だった。(09/13 共同)

 9月5日付・読売社説 [日露講和百年]「大衆迎合では国の道を誤る」
 大西洋に臨むアメリカ北東部の小さな港町ポーツマスが、世界の視線を集めていた。
 100年前の今日、1905年9月5日、日本とロシアの間でポーツマス講和条約が調印され、日露戦争終結した。
 樺太の南部が日本領となり、遼東半島の租借権や東清鉄道南部支線などもロシアから日本に譲り渡された。
 小村寿太郎外相を全権とする日本の代表団にとって、薄氷を踏むようなきわどい交渉だった。一連の経緯から、歴史の教訓をくみ取ることも出来るだろう。
 日本はロシアに対し、樺太全島の割譲や、賠償金の支払いも求めていた。ロシア皇帝は「1コペイカの賠償金も、一寸の領土も譲渡しない」と強硬な姿勢を崩さなかった。
 交渉は決裂寸前だった。ロシアは、満州中国東北部)に援軍を送って体制を立て直し、日本軍への再攻撃の準備を進めていた。
 日本の戦費は、数億円との見込みを大幅に上回って、既に約20億円に達していた。戦争の継続は困難だった。
 交渉の最終日に、ロシア側から樺太南部の割譲が提案された。樺太を断念していた日本政府には朗報だった。
 日本国内では講和反対論が吹き荒れていた。40億円の賠償を求める声や、ロシアの沿海州も割譲せよといった現実離れした要求が台頭していた。
 講和条約が締結された9月5日に、東京・日比谷では講和に反対する国民大会が開かれた。数万人の群衆が警官隊と衝突し、首相官邸や、小村外相の留守宅、一部の新聞社などに押しかけた。市電なども襲撃を受け、戒厳令が敷かれた。
 政府がこの時、戦争の継続を選択していたならば、日露戦争の「勝利」は「敗北」に転じていたかもしれない。
 感情的な「民意」にあおられて、指導者が冷徹な判断を怠るならば、国の道を誤る。それは、いつの時代にも共通する歴史の教訓である。
 日露戦争の指導者たちは、早い段階からアメリカに講和の仲介を依頼し、同盟国のイギリスとも密に情報交換を行った。講和会議の最終局面で、ロシアが樺太の南半分を譲る方針に転じた、との極秘情報も、ロシアが提案する直前に、イギリスから日本政府にもたらされた。
 ドイツの勝利を漠然と期待して無謀な戦争を始め、ドイツが敗れると、場当たり的にソ連に講和の仲介を求めて断られた昭和の指導者とは、大きな違いだ。
 明治の指導者は、複雑な国際情勢を的確にとらえ、日本の国力を冷静に計算した。これも日露戦争の教訓である。(2005年9月5日1時30分 読売新聞)

 天声人語(2005/9/5)
 百年前のきょう五日、米国東海岸の町ポーツマス日露戦争講和条約が結ばれた。戦勝に沸き立った日本はその後、帝政ロシアの轍(てつ)を踏み、韓国、中国への野望を露(あら)わにして第二次世界大戦に敗れる。その戦後六十年でもある今年、百年の歴史からどんな教訓を読み取るべきか
▼本紙編集委員清水美和著『「驕(おご)る日本」と闘った男−日露講和条約の舞台裏と朝河貫一』(講談社)は、小泉首相靖国参拝をきっかけに、日中韓が反目、かつてを思わせる排外的ナショナリズム高揚に直面する東アジアの現状に、貴重な教訓と反省の道しるべを与えてくれる
▼一八七三年、福島県の旧二本松藩士の家に生まれた朝河は、早稲田大学から米国に留学、ダートマス大学、エール大学で歴史学を学び、エール大学名誉教授となって一九四八年に生涯を終える
▼本書はその朝河が日露戦争当時、米国にあって、ロシアの併合主義に抗して日本支持を米国の新聞に訴え、ポーツマス条約の案文づくりにも影響を与えながら、表舞台から消えた謎を追う
▼朝河の関与については、九八年の本紙通年企画「百億人の二十世紀」で清水さんが紹介、歴史家の論争を呼んだ。本書は外交的配慮から秘められた日本政府とエール大学教授陣の協力の舞台裏を解明する
▼条約の賠償と領土放棄の理念に憤激して日比谷焼き打ち事件を起こす日本の民衆。それに鼓舞され植民地化と大陸侵略に突き進んだ軍部。日露戦後の著作『日本の禍機』でその増長と驕りを戒め、警鐘を鳴らした朝河の存在はもっと評価されていい。

 春秋(日経新聞9/5)
 歓呼の渦から罵声(ばせい)の嵐へ。100年前の9月5日米ポーツマスで日露講和にこぎ着けた日本全権小村寿太郎への国民の評価は、交渉の前後で残酷なほど急変した。勝ち戦なのに賠償金も取れない結果に暴徒の焼き打ちが相次ぎ、小村は「弱腰」の汚名を着せられる。
▼もとより政界や軍首脳にとって条約交渉での譲歩は既定路線だ。戦争を続けようにも兵力・戦費は底をつき、知らぬは血気盛んな国民ばかり。誰が交渉しても世論を敵に回すのは明白で、当初、全権候補だった伊藤博文は周囲の忠告もあり、さっさと辞退した。小村はババを引いたわけだ。
▼今年はまた、その小村の生誕150年。近く出版される二男・捷治氏(故人)の追想記『骨肉』(鉱脈社)には、条約に最も反対なのは自分だと父が家族に打ち明ける場面がある。戦争継続論者の小村にとって世間の「売国奴」呼ばわりは不本意の極みだったが、黙って耐え続けた。軽々に言い訳をしないのが明治魂でもあったろうか。
日露戦争で列強に加わった日本の自信は、やがて過信へと変わり、大陸への侵攻、ついには敗戦に至る。骨太の明治人と、その後の卑小な膨張主義者といった単純な色分けは禁物だが、何がこの国に分相応を忘れさせ慢心を促したのか、100年前の分岐点から見えてくるものは多かろう。

 産経抄 平成17(2005)年9月4日[日]
 日露戦争の講和のため米西海岸のシアトルに上陸した小村寿太郎外相の一行は汽車で大陸を横断、ニューヨークへ向かう。途中、山岳地帯の小さな駅に停車した。すると、窓の外に粗末な服を着た日本人らしい男五人が日の丸を手に立っている。
 ▼小村がデッキに出て問いかけると、彼らは八里ほど離れた山林で働いている日本からの移民だった。小村らがここを通ることを耳にし、枝を切って日の丸を作り、夜通し歩き続けて来たのだという。汽車が動き出すと、五人は頬(ほお)に涙を流しながら一行を見送った。
 ▼吉村昭氏の『ポーツマスの旗』に出てくる胸がはりさけそうな話である。小村はそんな国民のあつい思いを背中に、ポーツマスでロシア側との困難な交渉に臨む。そして一九〇五年九月五日、ようやく講和条約の締結にこぎつけた。明日でちょうど百年になる。
 ▼しかし、その国民の思いが一部で暴走する。交渉で日本が賠償金の放棄など譲歩を余儀なくされたことに対し、東京の日比谷公園で暴動が起き、新聞社や交番などが焼き打ちされた。これも同じ九月五日のできごとであり、戦争を終わらせることの難しさだった。
 ▼それでも講和できたのは、当時の政府関係者や政治家が一致して小村を支えたからだ。元老の伊藤博文は、国民の不満を当初から予測し、渡米する小村を「君の帰朝のとき、我輩だけは必ず迎えにいく」と送り出した。後ろから弾が飛んでくるようでは交渉などできないのである。
 ▼あれから百年、今、総選挙で外交問題はほとんど争点になっていない。拉致や核などの北朝鮮問題や、日中関係についてあつく語る候補者は少ない。「外交を政争の具にすべきでない」というのならともかく、いささか気になっている。

◇歴史から多く学べ−−作家・半藤一利
 今の時代状況は、太平洋戦争への転回点となった1931年の満州事変前後によく似ている。
 明治政府は国家の基軸を天皇制に、目標を富国強兵に置いた。日露戦争は強烈な成功体験だった。すると段々飽き足らなくなってくる。27年後、栄光の歴史だけを学んだ軍幹部が、満州事変を引き起こした。
 戦後は基軸を平和憲法に、目標を経済通商国家に置き、成長路線をひた走った。明治維新から日露戦争までが40年、戦後復興からバブル最盛期までも40年。十数年たって、日本人全体が飽き足らなくなり始めている。
 小泉首相は、現状への不満の一方で国家観を見失い、強力なリーダーシップを求める時代の要請が生んだリーダーかもしれない。国民は「首相におれを選べ」という小泉さんに呼応している。だが民主党は「岡田を選べ」になっていない。
 小泉さんが続投すれば、11月には「自衛軍保有」が盛り込まれた自民党憲法改正草案が正式に決まる。郵政民営化以外は白紙委任だから、次は憲法の番ではないか。行政府から独立した軍をどう統帥するかとの問題から太平洋戦争は起こったようなものだが、真剣に検討されていない。靖国神社は国のために死んでくれる人を祭る場所。小泉さんのこだわりは軍隊を作った時そういう場所がないと困るからじゃないか。
 「何となくおかしい」という感じがある。太平洋戦争前に「米国との戦争」が声高に語られるようになった雰囲気を私はそう感じた。あまり類似点に固執すべきでないが、人間は往々にして同じことをやりかねない。
    ◇    ◇
 東大文学部卒。文芸春秋を経て作家。著書に「ノモンハンの夏」「昭和史」など。75歳。【聞き手・上野央絵】(毎日新聞2005年9月3日)

<上> 熱狂の危うさ昭和に学べ 作家 半藤一利さん
 靖国神社はそもそも天皇家を守るためのお社なんです。神社のある九段上は皇居の西北、つまり外敵が襲ってくる方角で、そこに幕末・維新の動乱期に非業の死を遂げた方の霊を祭ることで、霊が強力な守護神になるという形なんですね。
 ところが西南戦争の後、「国のために戦ったのに報いが少ない」と近衛の砲兵隊が乱を起こします。軍の頭領の山県有朋が、給料が不満で内乱を起こすようでは、天皇のために死ぬのを潔しとする強い軍隊はできないと考え、別格の神社に昇格させるんですね。
 だから、天皇の軍隊としての戦死者しか祭られない。その意味で、「天皇陛下万歳」と死んでいった無数の人々を祭る靖国神社はまさに、軍事大国だった時代の名残を唯一、今に残す場所なんです。
 確かに、太平洋戦争までの道のりが自衛戦争だったという言い方に、理がないわけではありません。軍備増強を進めるソ連に備えるためやむを得ない面もありました。ただ、旧満州中国東北部)は元は中国のもの。公平に冷静に見れば、日中戦争はそれを確保するための侵略戦争ですよ。
 現在の状況は、歴史の転回期という意味で一九三一(昭和六)年に起きた満州事変の前後に似ています。人材面ではとにかく、士官学校、陸軍大学を優等で卒業という優秀な軍人が、中堅幹部として勢ぞろいした時期です。彼らは日露戦争直前に生まれ、その栄光の歴史だけを軍の学校で学んだ苦労を知らない世代。それらが集まり国家をあらぬ方へと引っ張っていった。
 威勢のいいことばかり言う最近の政治家と育ち方が似てますね。戦後日本は、先人が大変な苦労をして高度経済成長を成し遂げ、国民総生産(GNP)が世界一、二位の国家をつくりましたが、彼らはその栄光だけ背負って、何の苦労もしていない。
 明治国家は、国家を動かすための機軸を天皇制に、国家目標を富国強兵に置きましたが、ロシアに勝っていい気になり、昭和になると、目標をアジアの盟主に変えた。さらに、立憲君主天皇陛下憲法の枠外に出して「現人神の天皇」というものにしてしまった。
 戦後は、平和憲法を機軸に、経済復興を国家目標にしましたが、バブルの頂点に達した時期からそれに飽き足らなくなってきたんですね。現在は国家目標がなく、機軸がグラグラ揺れている、非常に困った状況ですね。
 憲法九条を改正して軍隊をつくれば、国は命令で人を死なせるのですから、戦死者に名誉を与える装置として、また靖国神社の出番でしょうね。
 二十年の昭和史から学ぶべき第一の教訓は「国民的熱狂をつくってはいけない」。満州事変後、新聞は局面ごとに軍部の動きを支持し、それにあおられた民衆は瞬く間に好戦的になっていった。
 靖国問題でも「中国? この野郎」という声は格好いいですから。熱狂は、威勢のいい言葉からも生まれると思います。(東京新聞2005年8月13日)http://www.tokyo-np.co.jp/yasukuni/

 ■【主張】「百人斬り」判決 史実の誤り広げかねない
 南京で旧日本軍の将校二人が「百人斬(ぎ)り」を行ったとする報道の真偽が問われた訴訟で、東京地裁は「明白に虚偽であるとは認められない」として、「事実無根」とする元将校の遺族の訴えを全面的に退けた。史実の誤りを増幅させかねない判決といえる。
 問題とされた報道は、最初に「百人斬り」を報じた昭和十二年の東京日日新聞(現毎日新聞)の記事と、昭和四十六年にそれを再び報じた朝日新聞の連載記事(中国の旅)である。
 東京地裁は「記事に虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないが、新聞記者の創作とまで認めるのは困難」「現在までさまざまな見解があり、歴史的事実としての評価は定まっていない」とした。
 しかし、朝日の連載記事が書かれた後、ノンフィクション作家の鈴木明氏は元将校の遺族らを取材し、その結果をまとめた著書『「南京大虐殺」のまぼろし』(大宅賞受賞作)で、「百人斬り」報道に疑問を提起した。東京日日新聞の記事に載った将校二人の写真を撮った元毎日新聞カメラマンも「戦意高揚のための記事で、あり得ない話だ」と証言している。
 また、毎日新聞が平成元年に発行した昭和史年鑑『昭和史全記録』は「百人斬りは事実無根」と自社の戦前の報道を否定した。米国にも「百人斬りは捏造(ねつぞう)」とする学術論文がある。
 「百人斬り」報道の信憑(しんぴょう)性を否定する反証は、十分に示されてきた。東京地裁の判決は、こうした最近の実証的な調査研究や当事者の証言をほとんど考慮に入れていない。元将校の遺族は控訴する方針で、控訴審での新たな判断が待たれる。
 「百人斬り」の責任を問われた元将校二人は戦後、中国・南京の軍事法廷で無実を訴えたが、東京日日新聞の記事を根拠に死刑を宣告され、処刑された。現在も、「百人斬り」は中国が一方的に主張する「南京大虐殺(三十万人以上)」の象徴的な出来事として宣伝されている。日本の教育現場でも、しばしば蒸し返されている。
 判決結果にかかわらず、「百人斬り」が冤罪(えんざい)だったことは疑いの余地がない。朝日、毎日両紙は訴訟の法的な問題とは別に、報道機関として自らの報道を謙虚に反省すべきである。(産経新聞2005年8月24日)

 特集WORLD:ちょっと待った/上(毎日新聞2005年8月23日)
 <高まるボルテージ 小泉首相はおっしゃるが、こんな反論も>
 総選挙は公示まで1週間。話題の候補が続々登場したり、新党ができたりと日々、めまぐるしい動きが続く。その間、小泉純一郎首相は印象に残るせりふを残し、そのボルテージは上がる一方だが、果たして本当にそうだろうかと思われることもある。振り返って、立ち止まって、最近の“小泉語録”に識者が反論する。【三角真理、山田道子】
 ◇弾圧した側にソックリ−−作家・米原万里
 ◆「約400年前、ガリレオ・ガリレイは、天動説の中で地動説を発表して有罪判決を受けました。そのとき『それでも地球は動く』と言ったそうです」=8日の衆院解散後の記者会見で郵政民営化実現の意思を強調して
 権力に心の中では徹底的に逆らって自説を曲げなかった科学者ガリレオ・ガリレイに、権力をかさに自説をごり押しし異論を排除する自分を例えてしまう小泉首相って自画像がゆがんでいるのね。よくもまあ、ガリレオに対する名誉棄損でイタリア政府や科学史協会から訴えられなかったこと。彼はワンフレーズ発言が多いけど、少し長く話すと無知と非論理がバレバレになる。ああ恥ずかしい。
 「他人の意見に耳を貸さずに自説を曲げなかった頑固者」という点に共通項を見いだしたのかもしれないけれど、ガリレオは自分と異なる意見の人々と議論を重ねながらコペルニクスが唱えた地動説を発展させていったのね。地動説にくみしたG・ブルーノが火あぶりの刑に処せられてるから、ガリレオは異端審問にかけられたとき形の上では地動説を退けざるを得なかった。「それでも地球は回っている」と審問所で彼がつぶやいたという記録はなくて、18世紀のフランスの作家トレルが広めた虚構なんだけど、どんな強権によっても人の頭や心の中まで支配できないということの例えとして事実以上のリアリティーがある。
 今の自民党内では自由に物が言えなくなってる。議員は首相に従っているフリをしないと生き残れないし、造反者には刺客まで送り込まれる。これ、中世のカトリック教会が自由な発想を異端扱いして封じる手口よね。つまり小泉首相ガリレオよりもガリレオを弾圧した側にソックリなのよ。その自覚がないのも、いかにも世界が常に自分を中心に回っている、天動説を地で行く小泉首相らしい。
 天下り先一つ増やすだけ−−慶応大教授・金子勝
 ◆「郵政事業を民営化できないでどんな大改革ができるんですか」「本当に行政改革、財政改革をやるんだったらば、この民営化に賛成するべきだ」=8日の記者会見などで
 小泉政権は「民営化イコール改革」という幻想を国民に植え付けようとしているだけで、改革に値するものは何もない。自ら掲げた新規国債発行額30兆円枠という公約を破り、その責任もとらないまま、今度は郵政の「株式会社化」だという。その間、債務残高は01年の政権発足時の540兆円から今年3月時点で780兆円にまで膨れ上がった。そして、郵貯簡保に巨額の国債と財投債を引き受けさせて、泥沼にはめてしまった。実際、郵貯簡保国債残高の約4分の1に当たる150兆円余りを持つ。財投債については、08年度から郵貯簡保資金が引き受けないでよいとされるが、現実に郵貯簡保が突然「引き受けない」と言えば債券は暴落し郵貯簡保は自ら大損する。何も変わらない。結局、売るにも売れず引き受けざるを得ないだろう。これで、どうして特殊法人改革ができるのか。
 膨大に膨れ上がった財政赤字対策のためには、国債と財投債の発行額を減らすことこそ抜本的対策である。そのために大口の引受先である郵貯簡保の預け入れ限度額を今の1000万円から例えば500万円にし、肥大化した受け皿に歯止めをかけることだ。同時に、小手先でない長期的ビジョンを持った年金制度改革や税制改革を行うことだ。小泉首相の言う「民営化」では、単に議会のチェックが利かない役人の天下り先をまた一つ増やすだけに終わる。
 ◇まず耳を傾けなくては−−帝塚山学院大教授・小田晋
 ◆「おれは殺されてもいいんだ。それぐらいの気構えでやっている」「おれは非情なんだ」=6日、解散しないよう公邸に説得に訪れた森喜朗前首相に
 小泉首相はもともと異端だったのが、今は異端を排除している。古今東西、権力者は権力が増し独裁的になるとともに、客観的に事態を見る目が曇り、行動に抑えが利かなくなり「暴君化」する傾向があるものだ。小泉首相の場合は、今のポストに就いて元来の性格が表面に出てきたのだと思う。
 人間を体形と性格で分けると、「たぬき型」と「きつね型」がある。自民党の党人派政治家は圧倒的に「たぬき型」。ふとり気味で気配り型なのに対し、小泉首相は義理人情にこだわらない「きつね型」。すなわち分裂気質だ。周囲を気にしないがそれを自分の利点だと信じて突き進む。粘り強く執拗(しつよう)な一方、爆発するときりがない粘着気質も加わっている。
 行動科学的にも興味深い。解散直前、小泉首相は「チキンゲーム」に挑んだ。絶壁に向かって自動車を走らせ、先にブレーキを踏んだ方が負けというゲームだがその際、狂人を装って相手を恐怖に陥れる手法がある。森氏を追い返した小泉首相はその手法を成功させたといえる(これはできレースかもしれないが)。そのような成功体験が続くと自分を神格化しがちである。その点で、小泉首相織田信長と似ている。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」だ。しかし、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という僧侶は「信長はいずれ高ころびに転ぶ(内部崩壊する)」と予想し、実際その通りになった。
 そうならないためにはまず、権力者は人の言うことに耳を傾けなくては。小泉首相はかつて「口は一つだが耳は二つある」と言ったが、本当にあるのか。もう一つは他者に対する同情心と思いやりを持つことだ。これを持たない指導者はどんなに偉大でも、支配される国民にとってはたまらない。

 本音のコラム:利権の再配分 宮崎学 (東京新聞2005/8/11)
 8月8日の参議院での「郵政法案」否決の模様を報道するテレビを見ていてふと旧い歌謡曲を思い出した。それは故鶴田浩二の歌で、確か「…莫迦と阿呆のからみあい…」という歌詞であった。なるほど反対派が既得利権を守ろうとしている姿には、旧い日本の姿を見る思いで、みっともないものではあった。
 一方、小泉派の姿は、反対派よりも醜悪に見えた。それは民営化によって発生する新しい利権へのあくなき執念を見るからである。
 この国は、国鉄民営化、電電公社民営化を経験した。「民営化」で確かに、旧い利権はなくなったかも知れないが、その後新しい利権構造をつくりだしたことはまぎれもない事実である。小泉派の醜悪さは、「改革」なる旗印の下に結局は利権を求める思想の醜悪さに由来する。その点では、「職場が無くなる」とした反対派の方が旗印を示せないだけにまだわかりやすい。
 経済のグローバル化が急速に進んでいる中での「郵政民営化」によって新しく生まれるであろう利権は、米国への身売りという姿だと思われる。それだけに小泉派の執念は、米国への忠誠心の発露であり、そのためさらに醜悪に見えるのだ。
 しかし日本という国の歴史を見た時、明治維新ですら所詮は利権の再配分であったと思われる。日本という国は、利権の再配分でしか動かない習性がある。
 この国はかくも素晴らしい国なのだ。

 つくる会」教科書、来春用採択は1%前後の見通し(朝日新聞2005年08月18日)
 来年春から中学校で使われる教科書の採択で、「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーらが執筆した扶桑社版の歴史、公民両教科書の採択率がそれぞれ1%前後になる見通しであることが朝日新聞社の調査でわかった。「つくる会」は「採択率10%」の目標を掲げていた。
 朝日新聞は15日現在で市区町村教委や私立中などに採択結果を取材、今月発表された学校基本調査(速報値)の児童・生徒数などをもとに計算し、おおよその採択率をまとめた。
 調査によると、全国で来年度使われる歴史、公民の教科書数はそれぞれ約120万冊で、このうち7割程度の約80万冊分は市区町村教委での「採択」または採択地区協議会での「選定」を終えていた。
 採択結果を公表していたのは、全体の4割程度の約40万冊分。この中で扶桑社版の採択率は歴史が約0.9%、公民は約0.6%だった。
 ただ、現時点では、全体の5割以上の冊数分について教育委員会が採択結果を公表していないか、採択を終えていない。これらの教委や、教科書会社などに取材した結果、採択率は最終的に1%前後となる見通しとわかった。各教委は8月末に教科書採択を終える。これを受けて文部科学省は今秋、教科書会社別の採択率を発表する予定。
 17日現在で、扶桑社版の採択が明らかになっているのは、歴史・公民教科書の双方は、公立が栃木県大田原市と、東京都立のろう・養護学校など。東京都杉並区、東京都立の中高一貫校などは歴史のみを採択した。
 扶桑社版は「他社の教科書は自虐的だ」と批判する「つくる会」のメンバーらが執筆し、「日本人としての自信と責任を持てる教科書を」と主張している。来春から使用される歴史、公民の教科書について検定合格したのはそれぞれ8社。
 文科省によると、扶桑社版で05年度使用分の採択率は歴史0.108%、公民0.074%だった。
 調査結果について扶桑社は「前回と比べて着実に採択部数は増えている。今後も増えることを願っており、最終的な結果を待ちたい」とコメントした。

  歴史教科書:「つくる会」採択率は0.5%以下
 来年4月から中学校で使用する教科書をめぐり、「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが執筆した扶桑社の歴史教科書の採択率が0.5%以下にとどまる見通しであることが分かった。公民の教科書についても0.2%前後で、初めて参入した前回(01年)同様、会の目標の10%を大幅に割り込むのは確実な情勢となった。同社は次回の教科書発行業務について「未定」としており、つくる会側が戦略の再検討を迫られる可能性が出てきた。
 教科書採択は、全国の583の採択地区で事実上7月からスタート、今月31日で締め切られる。扶桑社の独自集計によれば、採択された歴史教科書は、市区町村立で初採択された栃木県大田原市や東京都立の中高一貫校4校、杉並区などで計5000部。前回の約600部から8.3倍に増えたものの、現在判明している採択率は0.4%。公民も前回の約700部から3.5倍の2500部となったが、0.2%前後だ。
 採択率が確定するのは9月中旬以降になるが、前回(歴史教科書で0.038%)に続き、採算ラインの10%を大幅に下回るのは確実だ。今回の検定・採択にあたり、つくる会と扶桑社は内容のソフト化に加え、前回から唯一コラムで取り上げていた「北朝鮮による日本人拉致事件」について、北朝鮮側が認めたこと(02年)などを追い風に、地方議会などに採択を働きかけてきた。
 しかし、検定期間中に申請本を3回流出させていた事実が発覚したり、前回同様、中国と韓国両国が反発を強めたことなどが影響し、期待した成果につながらなかったとみられる。扶桑社は「前回より着実に増えた。ただ、期待していたが採択されなかった地域もあり残念だ。執ような妨害で公正な採択活動が阻害された」としている。【千代崎聖史、井上英介】(毎日新聞 2005年8月31日 3時00分)

 扶桑社教科書 採択は0.4%
 来年4月から中学校で使われる教科書の採択は、全国583の地域ごとに行われ、31日までにすべて終わりました。NHKが、47都道府県の教育委員会に取材した結果、韓国と中国から「過去の侵略を美化している」として批判を受けている、「扶桑社」の歴史教科書を使う中学校は、区市町村立では、東京・杉並区と栃木県大田原市の2つでした。これに東京都と愛媛県、それに滋賀県立の中高一貫校や、全国の10の私立中学校などを加えて、「扶桑社」の教科書を使う生徒の割合を示す採択率は0.4%程度にとどまる見通しです。これについて、「扶桑社」は「前回より採択部数は着実に増えたが、期待していた地区で採択されなかったところもあり残念だ。今回の結果を分析し、今後に生かしていきたい」と話しています。一方、「扶桑社」の歴史教科書の採択に反対してきた、「こどもと教科書全国ネット21」は「採択がごくわずかにとどまったのは、戦争に反対し平和を求める人たちの草の根運動の勝利だと考える。杉並区などには採択の撤回を求め続けたい」と話しています。(NHK09/01 18:50)

 歴史教科書:「つくる会」が会見「4年後に3たび挑戦」
 扶桑社が発行する中学校社会科教科書を執筆した「新しい歴史教科書をつくる会」(会長、八木秀次・高崎経済大助教授)が2日会見した。4年ごとに見直される教科書の採択率で、今回0.5%以下の見通しとなったことについて、八木会長らは「残念だが、教育委員会の最後の採決で『2対3』で採択されなかったケースが多数あり、選挙の惜敗率でいえば極めて高い。4年後に3たび挑戦する」と述べた。
 八木会長らは、1日時点での数字として、歴史が77校で5080冊、採択率が約0.43%、公民が42校で2560冊、約0.21%だったことを明らかにし、「目標の10%には届かなかったが、飛躍のための橋頭堡(きょうとうほ)だ」などと語った。(毎日新聞2005年9月2日20時34分)

 ■【主張】靖国神社 広く国民が参拝する場に(産経新聞2005年08月16日)
 戦後六十年目の終戦記念日を迎え、靖国神社に例年を大幅に上回る二十万人以上の参拝者が訪れた。高齢者の戦没者遺族に交じって、若いカップルや親子連れ、学生らの姿が目立った。
 参拝者の思いは「戦没者の霊を慰めにきた」「歴史に興味をもち、参拝してみようと思った」などさまざまだ。靖国神社への国民意識の高まりと参拝者の層の広がりを感じさせた。
 神社の周辺では、首相の靖国参拝に反対するグループが集会を開いたり、政治団体街宣車が走り回ったりしていたが、参拝者はそれらをほとんど無視するかのように、黙々と汗をふきながら参道を歩いていた。神社側もこれまでになく警備に気を配り、境内は静かに戦没者を追悼する雰囲気が保たれていたように思われる。
 靖国参拝は、戦没者遺族の世代からその子や孫の世代へと、確実に受け継がれているといえる。
 閣僚では、尾辻秀久厚生労働相小池百合子環境相がこの日、靖国神社を参拝し、中川昭一経済産業相らはその前に参拝した。尾辻氏は「戦死した父がまつられている」と個人としての参拝を強調したが、援護行政をつかさどり、過去に戦死者の合祀(ごうし)にかかわった監督官庁の長の参拝を評価したい。
 小泉純一郎首相の靖国参拝は今年、まだ行われていないが、靖国神社への国民の関心が高まるきっかけとなったのは、四年前の八月十三日の首相参拝だった。以来、小泉首相は中国や韓国の干渉に屈することなく、毎年一回の靖国参拝を続けている。今年も五回目の参拝が行われることを、多くの国民は願っていると思われる。
 小泉首相は戦後六十年の談話を発表した。一方的な謝罪に終わった戦後五十年の村山富市元首相談話を踏襲しながらも、「国策を誤り」など当時から批判の強かった表現は避け、アジアとの「未来志向の協力関係」を訴えた。村山談話が出された自社さ政権時代とは内外の状況が大きく変わっている。もっと小泉色を出してほしかった。
 靖国神社は、政治や外交とは離れた慰霊の場である。そこへ行けば、国民のだれもが自然な気持ちで国のために亡くなった先祖を思い、お参りできる社として、いつまでも栄えることを願いたい。

 戦後60年談話 発した言葉に重みを
 戦後六十年の終戦記念日に当たっての小泉純一郎首相の談話は、深い反省に基づいている。ただ、首相の実際の行動との食い違いが内外の不信を招いていることを、厳しく自覚してほしい。
 八月十五日に、首相談話を閣議決定したのは、一九九五年の戦後五十年に出された村山富市首相(当時)以来のことである。
 再び首相談話が必要だったのは、「植民地支配と侵略によって、多大の損害と苦痛を与えた」周辺の国々との間が、まさに歴史認識が原因となって、外交的にうまくいっていないからだ。
 「あらためて痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明するとともに、内外のすべての犠牲者に哀悼の意を表します」
 深い反省が込められた文言になっており、さらには「不戦の誓いを堅持する」強い意向も示している。
 六十年という節目に、内外に向けて発せられた首相の意思として、極めて妥当な内容だ。ただし歴史認識の部分は村山談話と全く同じだ。
 問題は、小泉首相のこれまでの行動がこの談話と食い違い、周辺国の反発を招いていることにある。
 一つは靖国神社参拝である。かつて首相は「戦没者に敬意を表する。私の心情から発する参拝に他の国が干渉すべきでない」と述べた。
 しかし靖国神社は、戦前には軍国主義をあおり、七八年からは首相も「戦争犯罪人」と認識する「A級戦犯」を合祀(ごうし)している。
 これでは、先の戦争を反省するどころか、肯定していると受け取られる。実際に被害国である中国や韓国は強く反発し、外交に支障を来し、ひいては国益を害している。
 首相は、ことし十五日以前に参拝する予定だったが、総選挙への影響を考慮して先送りしたようだ。それなら、外交的配慮もすべきだろう。
 戦没者や戦争犠牲者への哀悼は、この日の全国戦没者追悼式や首相談話で尽くされている。無反省の象徴と誤解を生む靖国参拝は、これからも取りやめた方がいい。
 また小泉首相は、六月の日韓首脳会談で靖国問題に関連して「無宗教の国立追悼施設」建設を「検討する」と約束した。
 しかし、首相は積極的に取り組む気配はみせず、来年度予算案での調査費計上も定かでない。
 これでは、中国や韓国などアジアの諸国と「未来志向の協力関係を構築していきたい」と言っても、なかなか信用されないではないか。
 小泉首相には、言行一致、今回の談話の重さと意味をしっかり認識するよう、注文をつけておく。(東京新聞2005年08月16日)

 【社説】61年目の出発 首相談話を生かしたい(朝日新聞2005年08月16日)
 15日。東京・九段の靖国神社。人の波と蝉時雨(せみしぐれ)がやまない。
 昭和天皇が60年前のその日、敗戦を国民に告げた「玉音放送」が再び流れてきた。参道で催された「終戦60年国民の集い」からだった。
 主催者が声を上げた。「崇高な自己犠牲をとげた英霊を弔うのに、他からとやかく言われるいわれは全くありません」。特設テントのいす席を埋めた大勢の参加者から拍手が起きる。
 東京裁判を批判し、合祀(ごうし)されたA級戦犯を擁護する声も聴衆の間から聞こえてきた。福島県から来たという84歳の元兵士は「中国が文句をつけるのは内政干渉ですよ」と話した。その近くでは旧軍の軍服姿の一団が軍歌を奏でていた。
 あの戦争に対する反省や責任の呪縛から解き放たれたような、奇妙な時空間が広がっていた。
 韓国はこの日、解放を記念する「光復節」である。ソウル市庁舎が3600枚の国旗「太極旗」で包まれた。植民地時代、日本が京城府庁舎として使った因縁浅からぬ建物だ。韓国民の民族心をくすぐらないではおかない。
 ナショナリズムは、いつまでも折り合いがつかないものなのだろうか。
 なぜ中国や韓国からそれほどまでに批判されなければならないのか。この春の反日デモなどの激しさは、逆に日本人の間に反発の気持ちを生んだ。
 日本がまた軍事大国化し、他国を侵略することなどあるはずがない。過去の非を追及するのもいい加減にしてほしい。そんな憤りが、中国や韓国に対する批判的な見方や、うっとうしいと思う感情を醸し出していく。
 ナショナリズムが暴走することの危険は、それをあおる愚とともに歴史が教えるところだ。他者の存在を受け入れ、思いやり、言い分に耳を傾ける寛容な心なしにその流れに歯止めをかけることは難しい。
 小泉首相はきのう、戦後60年の談話を発表した。植民地支配と侵略を反省して改めてわびるとともに、「内外すべての犠牲者」を追悼し、中韓はじめアジア諸国と協力していく決意を強調した。
 賛成である。戦後50年の村山首相談話を否定しようという動きもあるなかで、その歴史認識を引き継ぎ、未来志向を打ち出した点を評価したい。近隣国との連携なくして、世界化の時代は生きていけないのだから。
 同時に、大事なのは実践であることを強調したい。首相の靖国参拝や不用意な発言があれば、この談話はたちまち単なる紙きれに帰してしまう。
 さきに戦後60年の衆院決議が採決されたとき、一部の議員たちは棄権したり、欠席したりして不同意の意思を示した。
 だからこそ、アジアの人々は日本の指導者らの実際の行動を注視している。首相談話をうまく生かし、なんとか信頼を得るきっかけにできないものか。

 社説:戦後60年談話 首相は言葉の重み忘れずに
 小泉純一郎首相は、60回目の終戦記念日にあたって談話を発表した。閣議決定を経た政府の公式見解である。
 終戦記念日の談話といえば、95年の村山富市首相の戦後50年の談話が有名だ。自民党や国民の一部には自虐的だとの批判もあるが、先の大戦に対する政府の姿勢を明確にした点で意味があり、アジア各国からも高い評価を得ている。
 小泉首相の戦後60年談話は、歴史認識に関しては言葉遣いを含めおおむね村山談話を踏襲した。
 日本の「植民地支配と侵略」がアジア諸国の人々に「多大の損害と苦痛」を与えたとの認識を示し、「改めて痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明したのだ。村山談話にあった「国策を誤り」の言葉はなかったが、反省の気持ちは伝わってくる。
 小泉カラーは、アジア諸国との「未来志向の協力関係」の構築を強調した点に表れている。「一衣帯水の間にある中国や韓国」と国名をあえて盛り込み、「ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だ」と述べた。これはぎくしゃくした関係にある両国への小泉首相のメッセージである。
 歴史認識については、従来の政府の見解をなぞり、とりたてて新鮮味があるわけでもない。小泉首相は4月のバンドン会議の演説で村山談話を引用し、過去の歴史に関して各国に反省とお詫びの気持ちを表明している。
 しかし、自社さ政権時代の村山談話とほぼ同様の歴史認識を、首相が自らの政権の認識として発表した意味は大きい。自民党総裁としての小泉首相が示したそれは、政府見解としてより重みを持つのはもちろん、村山談話に批判があった自民党内でも無視することができない認識になるはずだ。
 本来なら小泉政権村山談話に沿った政権運営をしなければならなかった。にもかかわらず、中山成彬文部科学相らが歴史認識に関する問題発言を繰り返し、中国や韓国から批判を浴びた。小泉首相はそれを黙認してきた。
 だが、小泉首相は談話を出した以上、自らの言葉に責任を持たねばならない。閣僚の問題発言を放置すれば、小泉首相に対する内外の信用が揺らぐことになる。二枚舌外交だとの批判も招くことになるだろう。これまでのような、あいまいな対応は許されない。
 外交的にも、中国、韓国との関係修復は大きな課題だ。談話で首相は「過去を直視して」協力関係を構築する方針を示した。そのためには、中断している日中会談の実現が不可欠である。今後の小泉外交に注目したい。
 村山談話は歴史的な公式見解として国際的に定着してきた。だが、その後10年が経過し、ナショナリズムの高揚などで内外の情勢や国民の意識も変化している。
 戦後60年談話は内外からどんな評価を受けるのか。小泉首相には靖国参拝という難しい問題がある。「小泉談話」として定着させるには、靖国問題を含め解決すべき多くの課題が残っている。(毎日新聞 2005年8月16日)

 8月15日付・読売社説[戦後60年」「『戦争責任』を再点検したい」
 60年目の「戦後」である。今年も、東京・九段の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開催される。
 追悼対象者の中には、いわゆる「A級戦犯」も、含まれている。過去、その遺族らにも式典の招待状が送られてきた。しかし、そのことが、とりたてて国民の間で議論されることはなかった。
 他方で靖国神社への「A級戦犯」の合祀(ごうし)は、しばしば国内でも議論の対象となり、国際問題にもなってきた。
 戦争の記憶の風化がいわれるが、「A級戦犯」問題は風化していない。むしろ「60年」という区切りもあって、例年にも増して議論の熱度が高いようだ。
 「A級戦犯」問題の複雑さの表れといえるだろう。
 なぜ複雑なのかといえば、一つには、いわゆる「A級戦犯」とされた人たちも個々に見れば、「あの戦争」への関(かか)わり方は多様だったということである。
 たとえば、死刑になった7人の中で唯一の文官だった広田弘毅元首相については、極東国際軍事裁判東京裁判)の判事たちの間でも意見が割れた。死刑確定は6対5の1票差だったという。
 靖国神社には、死刑の7人を含む「A級戦犯」14人が合祀されている。この中には、開戦回避に尽力し、開戦後も早期講和の方途を探り続けた東郷茂徳元外相がいる。
 こうした人物も「A級戦犯」と位置づけられていることが、議論を複雑にしている。
 ほかにも「A級戦犯」がいる。合祀された14人を含めて、全部で25人である。この中には、後に池田内閣で法務大臣を務めた賀屋興宣元蔵相もいる。重光葵元外相も含まれている。重光元外相の死去に際しては、国連総会で黙とうが捧(ささ)げられている。
 「A級戦犯」問題が風化しない要因として、さらには東京裁判そのものの「性格」についての疑問が付きまとっていることもある。
 インド代表のパル判事は、東京裁判そのものは勝者による敗者への「儀式化された復讐(ふくしゅう)」とし、被告全員を無罪とする長大な「パル判決書」を提出した。
 ただし、この「判決書」は、講和条約が発効して日本が主権を回復するまで、連合国軍総司令部(GHQ)により、公表、出版は禁じられていた。
 東京裁判国際法的「性格」については、パル判事だけではなく、当時、欧米の多数の国際法学者などから疑問が投げかけられていた。
 たとえば、米国の最高裁判所のダグラス判事は「司法的な法廷ではなかった。それは政治権力の道具に過ぎなかった」と述べている。
 他方で東京裁判の間、裁く側の国際法違反や侵略行動も同時進行中だった。
 ソ連は約60万人の日本人捕虜をシベリアで奴隷労働に従事させていた。
 フランスはベトナムを、オランダはインドネシアをそれぞれ再び植民地化しようとして、現地民族独立軍と“再侵略戦争”中だった。
 今年5月7日、ブッシュ米大統領は、ラトビアの首都リガで、第2次大戦後の世界の枠組みを決めた米英ソ3国首脳によるヤルタ会談の合意について、「中東欧の人々を囚(とら)われの身とした歴史上最大の誤り」と演説した。
 いわば米大統領による「歴史の修正」である。日本にとってヤルタ会談は、米国がソ連に対し日ソ中立条約違反、日本侵略を誘った米ソ“共同謀議”の場でもあった。
 とはいえ、「あの戦争」が東アジアの人々に惨害をもたらしたことは間違いない。それは、いまだに歴史的負い目になっている。
 結果的に、欧米植民地の独立を早めたとしても、日本はそれを目的に開戦したわけではない。
 そして戦争は、日本国民をも塗炭の苦しみに陥れた。
 しかし、当時も開戦に反対した人たちは、政・軍・官・民の各界にも少なからずいた。それなのに、なぜ、あのような無謀な戦争に突入してしまったのか。
 対米英蘭戦争の責任は、東条英機内閣だけにあったのか。その前の近衛文麿内閣は、どうだったのか。対米英蘭戦争につながることになった日中戦争は、どういう人たちの責任なのか。広田元首相の死刑は不当だったとしても、責任はなかったのか。
 開戦後も、戦局の悪化にもかかわらずいたずらに早期講和への道を阻んで、内外の犠牲を増やし続けていった責任はどうなのか。
 東京裁判がきわめて疑問の多い粗雑なものであったとすれば、こうした「戦争責任」を、日本国民自らが再点検してみるべきではないか。
 戦勝国による政治的枠組みの中で規定された「戦犯」概念とは一定の距離を置いた見直しが、必要だろう。
 それは、「A級戦犯」14人を合祀した靖国神社の論理とも一定の距離を置いた見直しでもあろう。
 「60年」という区切りにどういう意味合いがあるにせよ、そうした国民的な歴史論議を始める「時代の節目」を迎えているのではないだろうか。(2005年8月15日読売新聞)

 社説:終戦記念日 とんがらず靖国を語ろう
 終戦の日から今年で還暦。小泉純一郎首相はじめ世間の多くの影響力ある人たちにとってさえ、あの戦争は記憶の中にあるのでなく記録の中にある。
 だからこそなのだろう。この60年を問い直す動きが内外で盛んにわき出している。小泉首相靖国神社参拝への賛否に象徴されるあの戦争とその後の60年全体に対する再評価の必要性が切実さを増している。それなしには前に進むことに支障をきたすことが現実にふえている。
 今年春中国で起きた連続的な反日デモ、国連安全保障理事会常任理事国入りに対する中国や韓国の非常に積極的な反対運動、教科書の記述内容などで再燃した歴史認識問題、東シナ海ガス田開発や竹島領有権問題が象徴する不必要な境界紛争など「戦後」にまつわる解決困難な問題が次々にクローズアップされている。
 ◇日中不仲は双方損だ 
 その結果たとえば東アジア共同体構想、アジア全体の自由貿易協定、北朝鮮の核問題に象徴される東アジアの安全保障、さらにはグローバリゼーションが進む中での日中協力の基本的な将来像作りと日米関係再構築のバランス、米軍再編成に伴う日本の安全保障体制の再設計などなど、将来を決める重要テーマの前提が不安定になっている。
 日中首脳会談が自由に開けない現状それだけでも、日本中国両国だけでなく世界にとって迷惑な話になっている。たとえば元の為替自由化を近い将来に控え、円ドル委員会30年の経験を中国通貨当局に伝えるかどうかに始まって、数々の省エネ技術から上海万博のお客さん対応での門外不出のノウハウを愛知万博当局から伝授するかどうかまで、中国が必要としている日本のノウハウは実は無限に近くあるのだ。それらを気持ちよく共有できるかどうかは日中両国信頼関係の根源につながっているし、世界経済運営への影響も絶大なのだ。なにも伸び盛りの中国だけが優位に立っているわけでは決してない。
 むしろ日中不仲で、日本が60年かけて積み上げてきた各方面さまざまなノウハウや特許、知的所有権やシステム設計力と中国の生産意欲や活力やダイナミックな社会変化の力が奇跡的にでも結びついて、現在地球上で最も強力な経済連携地域ができないことに、米国や欧州はほっとしているのかもしれない。
 たとえば小泉首相靖国参拝で再び中国で猛烈な反日デモが起きて困るのは誰なのか。周囲の情勢変化によって影響も反応も同じではない。時には参拝が中国当局に対する脅しにさえなることを小泉首相は途中から十分に認識しているに違いない。力関係だけからみれば攻守逆転しかけているともいえる。
 だがそうしたそのつど主義だけで目先の難問を解決したつもりになっているのは誤りだろう。あの戦争が100%否定され、中国共産党が一点の曇りもない正統な存在だ、いや全くそうではないと全否定同士のぶつかり合いを続けて、レベルの高くないナショナリズムをあおりあって、国内政権維持に利用しあうのはおろかなことである。
 時の政権がそれぞれ自分に都合のいい歴史の見方をするのは古来仕方のないことで、そういうことをする力を政権という。それを日中ともお互いが否定しあうだけでは実に幼稚である。
 お互いの言い分の存在を認めた上で、矛盾したり不都合な部分をどう案配していくか、それが外交である。それができなければ今時、現代、つまり過剰なほどの情報が世界中を行きかっている時代の立派な政府とはいえないということだ。「二度と戦争を起こさないと靖国参拝して、どこがいけないのか理解できない」と支持者の内々で言うなら勝手だが、日本国の首相が国会でそんなレベルの低い言い方をしてはいけない。
 戦争被害者からみれば日本軍は自分に都合のいい理屈の下で勝手に押し寄せてきて、山ほど殺されたのだ。その日本軍に命令を発し続け、見ようによってはもっと早く戦争終結が可能だったのを続行に全力を傾注し、国際的に認められていた戦争捕虜の権利を兵に教えず、「生きて虜囚の辱めを受けず」と玉砕を強要し、数百万人以上の死にかかわる決定を下し、そう行動した東条英機元首相ら戦争指導者が祭られている靖国神社を首相が参拝してはいけない。
 分祀はやればできる 
 ましてやその賛否論を通してあの戦争は正しかったとナショナリズムをあおる人たちは上品でない。愚手だ。
 もともと天皇が参拝してこそ意味のある靖国だ。靖国に祭られる最後の御霊(みたま)がなくなったころ小泉首相はまだ幼児、長じて首相になったからといって眦(まなじり)を決して参拝しても遺族の参拝以上のありがたみはない。力をこめればこめるほど見ているほうが気恥ずかしくなる。
 今後も首相が代わるたびに毎回同じことを繰り返すことに大きな意味は見いだしがたい。政教分離問題もあるが、終戦から暦が一巡したのを機会に、A級戦犯ほか希望者の分祀(ぶんし)によって靖国を内外ともわだかまりなく参拝できるようにすればいい。
 靖国神社や特定の遺族だけで分祀はできないと決める資格はないはず。戦没者の扱いは全国民の関心事だからだ。分祀など靖国があまりにも歴史の短い神社なのでやったことがないだけのことだ。このたび初めて分祀すればそれがしきたりになる。(毎日新聞2005年8月15日)

 戦後60年に考える 何を守り改めるか
 戦後史が大きな節目を迎えました。焦土からここまで来た日本の実りと、腐食が浮かびます。この六十年の、前と後の六十年も思って、心は穏やかならず。
 六十年は、長い歳月です。赤ん坊がおじい、おばあさんになってしまう。六十年前の敗戦時に、二十歳だった若者は今八十歳。中年以上だった人は、続々と世を去っています。
 だからか、戦後六十年の節目でもあることし、戦争の体験を新聞やテレビで語る人が増えました。むごさ、つらさに耐えられず、誤解、偏見を持たれるのも嫌で、沈黙してきた被害、加害の事実を、「生あるうちに」と語り遺(のこ)す人々に打たれます。
■黙っては逝けない
 そのだれもが言います。「二度と戦争をしちゃいけない」と。それを伝えたいために、六十年間の禁を破った人もいました。今の日本に危うさを覚えるからでもありましょう。
 「鬼畜米英」と戦争したなんて、ウッソーと笑う若者少なからず。8・15が何の日かも知らない。戦争の風化、恐るべしです。
 加えて、憲法九条を改める動き、自衛隊海外派遣の積み重ね、偏狭なナショナリズムの叫び…。このままでは日本の「非戦」の決意も揺らぐのでは、と黙っていられなくなった戦争経験者たちともいえましょう。
 明治以後の全体主義軍国主義、侵略、人権・言論の抑圧が破局に達した末に、日本は平和主義、民主主義の国に生まれ変わりました。新しい憲法の下で非戦を貫き、経済の繁栄も獲得した戦後史は世界に胸を張れるはずです。
 けれど半面で、政治的、社会的に数々の問題も生みました。その因を戦後民主主義憲法の欠陥ととらえ改憲論が軽やかに広がって…。はるかな時の流れと、確たるべきものの風化を思い知らされます。
 戦後もここに至って目立つ、そんな政治家や人々の思考の軽さにドキリとします。あの単純、平易なスローガンに人々が踊らされた戦前・戦中と同じじゃないかと。
 憲法が諸問題を生んでいるのではない。憲法を生かし切っていない怠慢こそが原因なのだ、と私たちはかねがね思っています。憲法の理念、諸条項を十分に具現していれば、年金不安や少子高齢化、リストラ、働かない働けない若者、モラル低下、不条理な凶悪犯罪など、社会問題をこれほど抱え込まなかったのでは。
 「個人の尊重」を自分の尊重と錯覚せず、「幸福追求」「健康で文化的な生活」を物質的豊かさや私利の充足と誤信しなければ、現代人の心の渇き、かほどでなかった。視野広く他者を思いやる社会なら、人の苦しむさまを見たかったという殺人犯なんぞ現れるはずもありません。
■日本の特質を大切に
 あらためて思います。六十年は長い。敗戦の一九四五年から六十年をさかのぼると一八八五年、明治の帝国憲法も国会もない時代へ行きます。逆に、遠い明治維新から六十年後はといえば一九二八(昭和三)年、満州事変のわずか三年前にまで来る。十四年間の戦争期を挟めば、戦後は明治維新以後の戦前とほぼ同じ長さになるのです。計算しながら日本近代史の激動、有為転変が胸にきます。
 前述の昭和三年は、パリで不戦条約が調印された年です。国際紛争解決のための戦争を非とし、国家の政策手段としての戦争放棄を宣言したこの条約は日本も批准しましたが、「人民ノ名ニ於テ」宣言するとの条約字句は、天皇大権の国体にもとるとして受け入れず、やがて戦争に突っ込んでいったのでした。
 条約の理念と文言が、戦後日本の憲法九条に生き返ったのは日本いや世界史の奇縁というべきか。いわば世界の理想を体したわが九条、誇らかに堅守してしかるべしでしょう。
 九条の平和主義も、反核の叫びもそれこそが日本の個性、特質のはず。断固これまで以上に貫徹し世界に影響を及ぼしていかないと、日本の将来はないのでは。
 安保を核に日米同盟の道を選んだ戦後日本が、米戦略に守られた平和の下で繁栄を遂げたのは事実です。割り切れなさの残る平和主義ではあります。これも私たちのかねての主張ですが、対米一辺倒、従属ではなく、物申すべきは言い、近隣諸国とは対米並み以上のきずなを結んでいきたいものです。
 外交、国際判断を米国依存に終始した日本の戦後ゆえ、いま大判断ができず、外交も政治も小粒な小国と軽んじられる。自立した骨太な国にならなくてはいけません。
■60年後の日本のために
 戦後六十年のいま気遣うのは、六十年後の日本です。平和で落ち着いた、世界に敬愛される国になっているか、どうでしょう。
 これからはもっと他者、相手の身になって考える。身辺から目を上げ遠く広くを見、じっくり思考を巡らせる。制度、生活、教育、心根も含め日本の守るべきもの、改めるべき点を深く吟味しながら、敢然と、私益にこだわらず、ふさわしい行動を起こしていこうではありませんか。
 その過程で、おのずと六十年後の日本像も立ち現れるでしょう。(8月14日東京新聞

【社説】なぜ戦争を続けたか 戦後60年に考える (朝日新聞2005年08月14日) 
 明日、60回目の終戦記念日を迎える。あの戦争は、もう1年早く終わらせることができたのではないか。開戦の愚は置くとして、どうしてもその疑問がわいてくる。
 犠牲者の数を調べてみて、まずそう思う。日中戦争から始まり、米国とも戦って終戦までの8年間で、日本人の戦没者は310万人にのぼる。その数は戦争末期に急カーブを描き、最後の1年間だけで200万近い人が命を落としているのだ。
 その1年に、戦線と日本の政治はどう動いたか。
●1年前に勝敗は決した
 44年6月、西太平洋のサイパン島に米軍が上陸した。日本はこの攻防と周りのマリアナ沖海戦で完敗した。もう攻勢に出る戦力はなく、この島から飛んでくるB29爆撃機の本土空襲を防ぐ手だてもない。軍事的な勝敗はここで決まった。
 同じころ、連合軍はノルマンディーに上陸し、日本が頼みとしたドイツの敗勢も明らかになっていた。
 軍の内部でも負けを覚悟する人たちがいた。大本営の一部の参謀たちは「今後、大勢挽回(ばんかい)の目途なし」と部内の日誌に書いた。そのうちのひとりは、参謀総長を兼ねる東条英機首相に終戦工作を始めるよう進言した。
 だが東条首相はこの参謀を更迭し、内閣改造で危機感を封じ込めようとした。陸相時代に「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を発し、兵に降伏より死を求めた人物である。負けを認めることはできなかった。
 それでも、終戦を狙う天皇周辺の重臣たちが手を組み、逆に東条内閣を総辞職に追い込んだ。44年7月の政変である。
 だが、戦争は終わらず、日本の迷走は劇的な段階に入る。フィリピンでの敗走は50万人の死につながった。軍はついに特攻という無謀な戦術に手を染め、多くの若者に理不尽な死を強いる。軍隊として、国家としての自己崩壊としかいいようがない。
 ようやく45年2月、近衛文麿・元首相は「敗戦は遺憾ながらもはや必至」と昭和天皇に戦争終結を提案した。それでも当時の指導層は決断しなかった。
 せめてここでやめていれば、と思う。東京大空襲沖縄戦は防げた。
 いったい、損害がふえるばかりのこの時期に、何をめざして戦い続けたのか。軍事史に詳しい歴史家大江志乃夫さんは「私にもわからない」と首をかしげる
 いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。
●救えたはずの数百万の命
 政治家や軍人の証言をまとめた「終戦史録」などを読むと、重臣たちは互いの自宅で密談を重ねていたことがわかる。だが、戦争終結の本音に踏み込む勇気はなく、互いの腹の探りあいに終始したという。情けない限りだ。
 結局、当時の政府は、広島と長崎の原爆とソ連参戦という、だれの目にも明らかな破局の事態を迎えて初めて降伏を決める。これを決断と呼ぶとすれば、あまりに遅いものだった。
 政治家や軍人は戦後になって、「戦争は欲しなかった」と口をそろえた。
 手厚い待遇を受け、安全な場所にいる高官たちは、政策を決める会議で自ら信ずるところを発言する責任がある。それを果たさなかったという告白だ。そんな無責任な指導者のもとで命を落とした数百万の人たちはたまらない。
 つまるところ、指導層のふがいなさに行き当たる。あの無残な1年間の理由はそれしか考えられない。
 確かに、戦争終結への動きを憲兵がかぎまわり、軍部には負けを認めぬ狂信的な一団がいた。だが大臣や将軍たちにはそれを抑える権限と責任があったはずだ。ところが、行きすぎを本気でただした形跡はほとんど見つからない。
 検閲があったとはいえ、新聞も追従する紙面を作った。重い戒めとしたい。
 戦後、日本人自身の手で指導層の責任を問う機運はおきなかった。責任を追及していくと、自分もその一端を担っていたかもしれない過去に向き合わなければならないからだろう。
 終戦直後の東久邇稔(ひがしくになる)彦(ひこ)首相が呼びかけた「全国民総懴悔(そうざんげ)」の言葉は、人々の胸に落ちたわけではなかろうけれど、都合よくもあった。責任を突き詰めて考えるのにふさわしいときではなかったのかもしれない。
●あの時代だけか
 さて、いまの時代である。言論の自由がある。もちろん、会社で上司に異を唱えれば冷遇され、場合によってはクビになるかもしれない。
 だが60年前と比べれば、筋が通った説に理不尽な仕打ちはしにくい時代だ。それなのに、明らかに被害が膨らんでいくばかりのときに決断を先送りする体質と、われわれは別れを告げただろうか。
 惰性で続く公共事業、経営の暴走による企業破綻(はたん)。戦争とは比べられないが、思い当たる事例は余りに多い。
 逃げずに決断するのは容易ではない。しかし、その強さを持つことが真の豊かな社会につながるのではないか。

 社説 〔戦後60年を超えて〕謙虚にしたたかに国際社会を生き抜く(日経新聞8/15)
 あの敗戦の日から60年を迎えた。南洋のジャングルで、南海の孤島で実に多くの将兵が悲惨な最期をとげた。空襲や原爆、沖縄戦で多くの非戦闘員も犠牲になった。日本人の犠牲者の総数は310万人に達する。多くの人々が癒やしがたい傷を負い、廃虚に立ちつくした。中国は日本の侵略による犠牲者が2000万人に達するとしている。改めてすべての戦争犠牲者に哀悼の意を表し、厳粛な思いを込めて平和国家、民主国家への誓いを新たにしたい。
敗戦のけじめ忘れるな
 それにしても理不尽な戦争だった。軍部の独断専行でなし崩し的に中国を侵略し、日中戦争が泥沼化すると場当たり的に南方に進出し、ついには勝ち目のない対米英戦争に突入して国家を破滅させ、周辺国に多大の損害を与えた戦争指導者の責任をあいまいにしてはならない。
 戦後60年の今年、日本の「戦争のけじめ」が大きな論議になった。東条英機ら戦争指導者を合祀(ごうし)する靖国神社への小泉首相の参拝に中国、韓国が強い異議を唱え、日中、日韓関係が一気に険悪化したからである。ことあるごとに歴史問題を持ち出す中国、韓国の姿勢には同調しないが、日本が過去の戦争のけじめをあいまいにする態度をとれば、近隣諸国と信頼関係を維持するのが難しくなるのも事実である。
 日本は東条ら戦争犯罪人を裁いた東京裁判の結果をサンフランシスコ平和条約で受け入れて対外的な戦争のけじめをつけ、主権を回復して国際社会に復帰した。東京裁判については様々な見方がありうるが、いまさらその当否を蒸し返しても国際的に通用しない議論であり、日本の国際的な信用を損なうだけである。
 敗戦国の日本が戦争のけじめをあいまいにして国際社会で生き抜くことは難しい。A級戦犯を合祀する靖国への首相参拝が諸外国に誤解を与えることがないよう、小泉首相国益や外交戦略を踏まえて慎重の上にも慎重な判断をすべきである。
 戦後の日本は平和国家に徹し、めざましい復興を遂げ、世界有数の経済大国になった。これは誇りうる歴史である。痛恨事は1980年代後半のカネあまり状況で企業も個人も投機に走ってバブル経済を現出させ、その崩壊によって巨額の国民の富を一気に失ったことである。
 バブル経済崩壊はまさに「第二の敗戦」である。今年の経済財政白書は日本経済がバブル崩壊の後遺症である過剰債務、過剰雇用、過剰設備からようやく脱したと宣言した。戦後60年の節目にあたり、わたしたちは先の大戦の敗戦や第二の敗戦から真剣に教訓を学び取り、これを将来に生かしていくべきだろう。
 「根拠のない熱狂」は身を滅ぼすもとである。戦前の日本はナショナリズム軍国主義の熱狂に踊って国を壊滅させた。バブル経済の時代には土地や株、さらにゴルフ会員権や美術品などへの投機に熱狂し、巨額の借金と不良債権の山が残った。
 人々は日々の仕事と生活に追われ、成功すれば気分が高揚し、失敗すれば気分が落ち込んで何かに不満のはけ口を求めようとする。そうした積み重ねで気がつけば国全体が極端に偏った方向に流されることが起こりうる。わたしたちジャーナリズムの自戒も込めて、常に謙虚さと冷静さを失わないよう肝に銘じたい。