8月15日付・読売社説[戦後60年」「『戦争責任』を再点検したい」
 60年目の「戦後」である。今年も、東京・九段の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が開催される。
 追悼対象者の中には、いわゆる「A級戦犯」も、含まれている。過去、その遺族らにも式典の招待状が送られてきた。しかし、そのことが、とりたてて国民の間で議論されることはなかった。
 他方で靖国神社への「A級戦犯」の合祀(ごうし)は、しばしば国内でも議論の対象となり、国際問題にもなってきた。
 戦争の記憶の風化がいわれるが、「A級戦犯」問題は風化していない。むしろ「60年」という区切りもあって、例年にも増して議論の熱度が高いようだ。
 「A級戦犯」問題の複雑さの表れといえるだろう。
 なぜ複雑なのかといえば、一つには、いわゆる「A級戦犯」とされた人たちも個々に見れば、「あの戦争」への関(かか)わり方は多様だったということである。
 たとえば、死刑になった7人の中で唯一の文官だった広田弘毅元首相については、極東国際軍事裁判東京裁判)の判事たちの間でも意見が割れた。死刑確定は6対5の1票差だったという。
 靖国神社には、死刑の7人を含む「A級戦犯」14人が合祀されている。この中には、開戦回避に尽力し、開戦後も早期講和の方途を探り続けた東郷茂徳元外相がいる。
 こうした人物も「A級戦犯」と位置づけられていることが、議論を複雑にしている。
 ほかにも「A級戦犯」がいる。合祀された14人を含めて、全部で25人である。この中には、後に池田内閣で法務大臣を務めた賀屋興宣元蔵相もいる。重光葵元外相も含まれている。重光元外相の死去に際しては、国連総会で黙とうが捧(ささ)げられている。
 「A級戦犯」問題が風化しない要因として、さらには東京裁判そのものの「性格」についての疑問が付きまとっていることもある。
 インド代表のパル判事は、東京裁判そのものは勝者による敗者への「儀式化された復讐(ふくしゅう)」とし、被告全員を無罪とする長大な「パル判決書」を提出した。
 ただし、この「判決書」は、講和条約が発効して日本が主権を回復するまで、連合国軍総司令部(GHQ)により、公表、出版は禁じられていた。
 東京裁判国際法的「性格」については、パル判事だけではなく、当時、欧米の多数の国際法学者などから疑問が投げかけられていた。
 たとえば、米国の最高裁判所のダグラス判事は「司法的な法廷ではなかった。それは政治権力の道具に過ぎなかった」と述べている。
 他方で東京裁判の間、裁く側の国際法違反や侵略行動も同時進行中だった。
 ソ連は約60万人の日本人捕虜をシベリアで奴隷労働に従事させていた。
 フランスはベトナムを、オランダはインドネシアをそれぞれ再び植民地化しようとして、現地民族独立軍と“再侵略戦争”中だった。
 今年5月7日、ブッシュ米大統領は、ラトビアの首都リガで、第2次大戦後の世界の枠組みを決めた米英ソ3国首脳によるヤルタ会談の合意について、「中東欧の人々を囚(とら)われの身とした歴史上最大の誤り」と演説した。
 いわば米大統領による「歴史の修正」である。日本にとってヤルタ会談は、米国がソ連に対し日ソ中立条約違反、日本侵略を誘った米ソ“共同謀議”の場でもあった。
 とはいえ、「あの戦争」が東アジアの人々に惨害をもたらしたことは間違いない。それは、いまだに歴史的負い目になっている。
 結果的に、欧米植民地の独立を早めたとしても、日本はそれを目的に開戦したわけではない。
 そして戦争は、日本国民をも塗炭の苦しみに陥れた。
 しかし、当時も開戦に反対した人たちは、政・軍・官・民の各界にも少なからずいた。それなのに、なぜ、あのような無謀な戦争に突入してしまったのか。
 対米英蘭戦争の責任は、東条英機内閣だけにあったのか。その前の近衛文麿内閣は、どうだったのか。対米英蘭戦争につながることになった日中戦争は、どういう人たちの責任なのか。広田元首相の死刑は不当だったとしても、責任はなかったのか。
 開戦後も、戦局の悪化にもかかわらずいたずらに早期講和への道を阻んで、内外の犠牲を増やし続けていった責任はどうなのか。
 東京裁判がきわめて疑問の多い粗雑なものであったとすれば、こうした「戦争責任」を、日本国民自らが再点検してみるべきではないか。
 戦勝国による政治的枠組みの中で規定された「戦犯」概念とは一定の距離を置いた見直しが、必要だろう。
 それは、「A級戦犯」14人を合祀した靖国神社の論理とも一定の距離を置いた見直しでもあろう。
 「60年」という区切りにどういう意味合いがあるにせよ、そうした国民的な歴史論議を始める「時代の節目」を迎えているのではないだろうか。(2005年8月15日読売新聞)

 社説:終戦記念日 とんがらず靖国を語ろう
 終戦の日から今年で還暦。小泉純一郎首相はじめ世間の多くの影響力ある人たちにとってさえ、あの戦争は記憶の中にあるのでなく記録の中にある。
 だからこそなのだろう。この60年を問い直す動きが内外で盛んにわき出している。小泉首相靖国神社参拝への賛否に象徴されるあの戦争とその後の60年全体に対する再評価の必要性が切実さを増している。それなしには前に進むことに支障をきたすことが現実にふえている。
 今年春中国で起きた連続的な反日デモ、国連安全保障理事会常任理事国入りに対する中国や韓国の非常に積極的な反対運動、教科書の記述内容などで再燃した歴史認識問題、東シナ海ガス田開発や竹島領有権問題が象徴する不必要な境界紛争など「戦後」にまつわる解決困難な問題が次々にクローズアップされている。
 ◇日中不仲は双方損だ 
 その結果たとえば東アジア共同体構想、アジア全体の自由貿易協定、北朝鮮の核問題に象徴される東アジアの安全保障、さらにはグローバリゼーションが進む中での日中協力の基本的な将来像作りと日米関係再構築のバランス、米軍再編成に伴う日本の安全保障体制の再設計などなど、将来を決める重要テーマの前提が不安定になっている。
 日中首脳会談が自由に開けない現状それだけでも、日本中国両国だけでなく世界にとって迷惑な話になっている。たとえば元の為替自由化を近い将来に控え、円ドル委員会30年の経験を中国通貨当局に伝えるかどうかに始まって、数々の省エネ技術から上海万博のお客さん対応での門外不出のノウハウを愛知万博当局から伝授するかどうかまで、中国が必要としている日本のノウハウは実は無限に近くあるのだ。それらを気持ちよく共有できるかどうかは日中両国信頼関係の根源につながっているし、世界経済運営への影響も絶大なのだ。なにも伸び盛りの中国だけが優位に立っているわけでは決してない。
 むしろ日中不仲で、日本が60年かけて積み上げてきた各方面さまざまなノウハウや特許、知的所有権やシステム設計力と中国の生産意欲や活力やダイナミックな社会変化の力が奇跡的にでも結びついて、現在地球上で最も強力な経済連携地域ができないことに、米国や欧州はほっとしているのかもしれない。
 たとえば小泉首相靖国参拝で再び中国で猛烈な反日デモが起きて困るのは誰なのか。周囲の情勢変化によって影響も反応も同じではない。時には参拝が中国当局に対する脅しにさえなることを小泉首相は途中から十分に認識しているに違いない。力関係だけからみれば攻守逆転しかけているともいえる。
 だがそうしたそのつど主義だけで目先の難問を解決したつもりになっているのは誤りだろう。あの戦争が100%否定され、中国共産党が一点の曇りもない正統な存在だ、いや全くそうではないと全否定同士のぶつかり合いを続けて、レベルの高くないナショナリズムをあおりあって、国内政権維持に利用しあうのはおろかなことである。
 時の政権がそれぞれ自分に都合のいい歴史の見方をするのは古来仕方のないことで、そういうことをする力を政権という。それを日中ともお互いが否定しあうだけでは実に幼稚である。
 お互いの言い分の存在を認めた上で、矛盾したり不都合な部分をどう案配していくか、それが外交である。それができなければ今時、現代、つまり過剰なほどの情報が世界中を行きかっている時代の立派な政府とはいえないということだ。「二度と戦争を起こさないと靖国参拝して、どこがいけないのか理解できない」と支持者の内々で言うなら勝手だが、日本国の首相が国会でそんなレベルの低い言い方をしてはいけない。
 戦争被害者からみれば日本軍は自分に都合のいい理屈の下で勝手に押し寄せてきて、山ほど殺されたのだ。その日本軍に命令を発し続け、見ようによってはもっと早く戦争終結が可能だったのを続行に全力を傾注し、国際的に認められていた戦争捕虜の権利を兵に教えず、「生きて虜囚の辱めを受けず」と玉砕を強要し、数百万人以上の死にかかわる決定を下し、そう行動した東条英機元首相ら戦争指導者が祭られている靖国神社を首相が参拝してはいけない。
 分祀はやればできる 
 ましてやその賛否論を通してあの戦争は正しかったとナショナリズムをあおる人たちは上品でない。愚手だ。
 もともと天皇が参拝してこそ意味のある靖国だ。靖国に祭られる最後の御霊(みたま)がなくなったころ小泉首相はまだ幼児、長じて首相になったからといって眦(まなじり)を決して参拝しても遺族の参拝以上のありがたみはない。力をこめればこめるほど見ているほうが気恥ずかしくなる。
 今後も首相が代わるたびに毎回同じことを繰り返すことに大きな意味は見いだしがたい。政教分離問題もあるが、終戦から暦が一巡したのを機会に、A級戦犯ほか希望者の分祀(ぶんし)によって靖国を内外ともわだかまりなく参拝できるようにすればいい。
 靖国神社や特定の遺族だけで分祀はできないと決める資格はないはず。戦没者の扱いは全国民の関心事だからだ。分祀など靖国があまりにも歴史の短い神社なのでやったことがないだけのことだ。このたび初めて分祀すればそれがしきたりになる。(毎日新聞2005年8月15日)

 戦後60年に考える 何を守り改めるか
 戦後史が大きな節目を迎えました。焦土からここまで来た日本の実りと、腐食が浮かびます。この六十年の、前と後の六十年も思って、心は穏やかならず。
 六十年は、長い歳月です。赤ん坊がおじい、おばあさんになってしまう。六十年前の敗戦時に、二十歳だった若者は今八十歳。中年以上だった人は、続々と世を去っています。
 だからか、戦後六十年の節目でもあることし、戦争の体験を新聞やテレビで語る人が増えました。むごさ、つらさに耐えられず、誤解、偏見を持たれるのも嫌で、沈黙してきた被害、加害の事実を、「生あるうちに」と語り遺(のこ)す人々に打たれます。
■黙っては逝けない
 そのだれもが言います。「二度と戦争をしちゃいけない」と。それを伝えたいために、六十年間の禁を破った人もいました。今の日本に危うさを覚えるからでもありましょう。
 「鬼畜米英」と戦争したなんて、ウッソーと笑う若者少なからず。8・15が何の日かも知らない。戦争の風化、恐るべしです。
 加えて、憲法九条を改める動き、自衛隊海外派遣の積み重ね、偏狭なナショナリズムの叫び…。このままでは日本の「非戦」の決意も揺らぐのでは、と黙っていられなくなった戦争経験者たちともいえましょう。
 明治以後の全体主義軍国主義、侵略、人権・言論の抑圧が破局に達した末に、日本は平和主義、民主主義の国に生まれ変わりました。新しい憲法の下で非戦を貫き、経済の繁栄も獲得した戦後史は世界に胸を張れるはずです。
 けれど半面で、政治的、社会的に数々の問題も生みました。その因を戦後民主主義憲法の欠陥ととらえ改憲論が軽やかに広がって…。はるかな時の流れと、確たるべきものの風化を思い知らされます。
 戦後もここに至って目立つ、そんな政治家や人々の思考の軽さにドキリとします。あの単純、平易なスローガンに人々が踊らされた戦前・戦中と同じじゃないかと。
 憲法が諸問題を生んでいるのではない。憲法を生かし切っていない怠慢こそが原因なのだ、と私たちはかねがね思っています。憲法の理念、諸条項を十分に具現していれば、年金不安や少子高齢化、リストラ、働かない働けない若者、モラル低下、不条理な凶悪犯罪など、社会問題をこれほど抱え込まなかったのでは。
 「個人の尊重」を自分の尊重と錯覚せず、「幸福追求」「健康で文化的な生活」を物質的豊かさや私利の充足と誤信しなければ、現代人の心の渇き、かほどでなかった。視野広く他者を思いやる社会なら、人の苦しむさまを見たかったという殺人犯なんぞ現れるはずもありません。
■日本の特質を大切に
 あらためて思います。六十年は長い。敗戦の一九四五年から六十年をさかのぼると一八八五年、明治の帝国憲法も国会もない時代へ行きます。逆に、遠い明治維新から六十年後はといえば一九二八(昭和三)年、満州事変のわずか三年前にまで来る。十四年間の戦争期を挟めば、戦後は明治維新以後の戦前とほぼ同じ長さになるのです。計算しながら日本近代史の激動、有為転変が胸にきます。
 前述の昭和三年は、パリで不戦条約が調印された年です。国際紛争解決のための戦争を非とし、国家の政策手段としての戦争放棄を宣言したこの条約は日本も批准しましたが、「人民ノ名ニ於テ」宣言するとの条約字句は、天皇大権の国体にもとるとして受け入れず、やがて戦争に突っ込んでいったのでした。
 条約の理念と文言が、戦後日本の憲法九条に生き返ったのは日本いや世界史の奇縁というべきか。いわば世界の理想を体したわが九条、誇らかに堅守してしかるべしでしょう。
 九条の平和主義も、反核の叫びもそれこそが日本の個性、特質のはず。断固これまで以上に貫徹し世界に影響を及ぼしていかないと、日本の将来はないのでは。
 安保を核に日米同盟の道を選んだ戦後日本が、米戦略に守られた平和の下で繁栄を遂げたのは事実です。割り切れなさの残る平和主義ではあります。これも私たちのかねての主張ですが、対米一辺倒、従属ではなく、物申すべきは言い、近隣諸国とは対米並み以上のきずなを結んでいきたいものです。
 外交、国際判断を米国依存に終始した日本の戦後ゆえ、いま大判断ができず、外交も政治も小粒な小国と軽んじられる。自立した骨太な国にならなくてはいけません。
■60年後の日本のために
 戦後六十年のいま気遣うのは、六十年後の日本です。平和で落ち着いた、世界に敬愛される国になっているか、どうでしょう。
 これからはもっと他者、相手の身になって考える。身辺から目を上げ遠く広くを見、じっくり思考を巡らせる。制度、生活、教育、心根も含め日本の守るべきもの、改めるべき点を深く吟味しながら、敢然と、私益にこだわらず、ふさわしい行動を起こしていこうではありませんか。
 その過程で、おのずと六十年後の日本像も立ち現れるでしょう。(8月14日東京新聞

【社説】なぜ戦争を続けたか 戦後60年に考える (朝日新聞2005年08月14日) 
 明日、60回目の終戦記念日を迎える。あの戦争は、もう1年早く終わらせることができたのではないか。開戦の愚は置くとして、どうしてもその疑問がわいてくる。
 犠牲者の数を調べてみて、まずそう思う。日中戦争から始まり、米国とも戦って終戦までの8年間で、日本人の戦没者は310万人にのぼる。その数は戦争末期に急カーブを描き、最後の1年間だけで200万近い人が命を落としているのだ。
 その1年に、戦線と日本の政治はどう動いたか。
●1年前に勝敗は決した
 44年6月、西太平洋のサイパン島に米軍が上陸した。日本はこの攻防と周りのマリアナ沖海戦で完敗した。もう攻勢に出る戦力はなく、この島から飛んでくるB29爆撃機の本土空襲を防ぐ手だてもない。軍事的な勝敗はここで決まった。
 同じころ、連合軍はノルマンディーに上陸し、日本が頼みとしたドイツの敗勢も明らかになっていた。
 軍の内部でも負けを覚悟する人たちがいた。大本営の一部の参謀たちは「今後、大勢挽回(ばんかい)の目途なし」と部内の日誌に書いた。そのうちのひとりは、参謀総長を兼ねる東条英機首相に終戦工作を始めるよう進言した。
 だが東条首相はこの参謀を更迭し、内閣改造で危機感を封じ込めようとした。陸相時代に「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を発し、兵に降伏より死を求めた人物である。負けを認めることはできなかった。
 それでも、終戦を狙う天皇周辺の重臣たちが手を組み、逆に東条内閣を総辞職に追い込んだ。44年7月の政変である。
 だが、戦争は終わらず、日本の迷走は劇的な段階に入る。フィリピンでの敗走は50万人の死につながった。軍はついに特攻という無謀な戦術に手を染め、多くの若者に理不尽な死を強いる。軍隊として、国家としての自己崩壊としかいいようがない。
 ようやく45年2月、近衛文麿・元首相は「敗戦は遺憾ながらもはや必至」と昭和天皇に戦争終結を提案した。それでも当時の指導層は決断しなかった。
 せめてここでやめていれば、と思う。東京大空襲沖縄戦は防げた。
 いったい、損害がふえるばかりのこの時期に、何をめざして戦い続けたのか。軍事史に詳しい歴史家大江志乃夫さんは「私にもわからない」と首をかしげる
 いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。
●救えたはずの数百万の命
 政治家や軍人の証言をまとめた「終戦史録」などを読むと、重臣たちは互いの自宅で密談を重ねていたことがわかる。だが、戦争終結の本音に踏み込む勇気はなく、互いの腹の探りあいに終始したという。情けない限りだ。
 結局、当時の政府は、広島と長崎の原爆とソ連参戦という、だれの目にも明らかな破局の事態を迎えて初めて降伏を決める。これを決断と呼ぶとすれば、あまりに遅いものだった。
 政治家や軍人は戦後になって、「戦争は欲しなかった」と口をそろえた。
 手厚い待遇を受け、安全な場所にいる高官たちは、政策を決める会議で自ら信ずるところを発言する責任がある。それを果たさなかったという告白だ。そんな無責任な指導者のもとで命を落とした数百万の人たちはたまらない。
 つまるところ、指導層のふがいなさに行き当たる。あの無残な1年間の理由はそれしか考えられない。
 確かに、戦争終結への動きを憲兵がかぎまわり、軍部には負けを認めぬ狂信的な一団がいた。だが大臣や将軍たちにはそれを抑える権限と責任があったはずだ。ところが、行きすぎを本気でただした形跡はほとんど見つからない。
 検閲があったとはいえ、新聞も追従する紙面を作った。重い戒めとしたい。
 戦後、日本人自身の手で指導層の責任を問う機運はおきなかった。責任を追及していくと、自分もその一端を担っていたかもしれない過去に向き合わなければならないからだろう。
 終戦直後の東久邇稔(ひがしくになる)彦(ひこ)首相が呼びかけた「全国民総懴悔(そうざんげ)」の言葉は、人々の胸に落ちたわけではなかろうけれど、都合よくもあった。責任を突き詰めて考えるのにふさわしいときではなかったのかもしれない。
●あの時代だけか
 さて、いまの時代である。言論の自由がある。もちろん、会社で上司に異を唱えれば冷遇され、場合によってはクビになるかもしれない。
 だが60年前と比べれば、筋が通った説に理不尽な仕打ちはしにくい時代だ。それなのに、明らかに被害が膨らんでいくばかりのときに決断を先送りする体質と、われわれは別れを告げただろうか。
 惰性で続く公共事業、経営の暴走による企業破綻(はたん)。戦争とは比べられないが、思い当たる事例は余りに多い。
 逃げずに決断するのは容易ではない。しかし、その強さを持つことが真の豊かな社会につながるのではないか。

 社説 〔戦後60年を超えて〕謙虚にしたたかに国際社会を生き抜く(日経新聞8/15)
 あの敗戦の日から60年を迎えた。南洋のジャングルで、南海の孤島で実に多くの将兵が悲惨な最期をとげた。空襲や原爆、沖縄戦で多くの非戦闘員も犠牲になった。日本人の犠牲者の総数は310万人に達する。多くの人々が癒やしがたい傷を負い、廃虚に立ちつくした。中国は日本の侵略による犠牲者が2000万人に達するとしている。改めてすべての戦争犠牲者に哀悼の意を表し、厳粛な思いを込めて平和国家、民主国家への誓いを新たにしたい。
敗戦のけじめ忘れるな
 それにしても理不尽な戦争だった。軍部の独断専行でなし崩し的に中国を侵略し、日中戦争が泥沼化すると場当たり的に南方に進出し、ついには勝ち目のない対米英戦争に突入して国家を破滅させ、周辺国に多大の損害を与えた戦争指導者の責任をあいまいにしてはならない。
 戦後60年の今年、日本の「戦争のけじめ」が大きな論議になった。東条英機ら戦争指導者を合祀(ごうし)する靖国神社への小泉首相の参拝に中国、韓国が強い異議を唱え、日中、日韓関係が一気に険悪化したからである。ことあるごとに歴史問題を持ち出す中国、韓国の姿勢には同調しないが、日本が過去の戦争のけじめをあいまいにする態度をとれば、近隣諸国と信頼関係を維持するのが難しくなるのも事実である。
 日本は東条ら戦争犯罪人を裁いた東京裁判の結果をサンフランシスコ平和条約で受け入れて対外的な戦争のけじめをつけ、主権を回復して国際社会に復帰した。東京裁判については様々な見方がありうるが、いまさらその当否を蒸し返しても国際的に通用しない議論であり、日本の国際的な信用を損なうだけである。
 敗戦国の日本が戦争のけじめをあいまいにして国際社会で生き抜くことは難しい。A級戦犯を合祀する靖国への首相参拝が諸外国に誤解を与えることがないよう、小泉首相国益や外交戦略を踏まえて慎重の上にも慎重な判断をすべきである。
 戦後の日本は平和国家に徹し、めざましい復興を遂げ、世界有数の経済大国になった。これは誇りうる歴史である。痛恨事は1980年代後半のカネあまり状況で企業も個人も投機に走ってバブル経済を現出させ、その崩壊によって巨額の国民の富を一気に失ったことである。
 バブル経済崩壊はまさに「第二の敗戦」である。今年の経済財政白書は日本経済がバブル崩壊の後遺症である過剰債務、過剰雇用、過剰設備からようやく脱したと宣言した。戦後60年の節目にあたり、わたしたちは先の大戦の敗戦や第二の敗戦から真剣に教訓を学び取り、これを将来に生かしていくべきだろう。
 「根拠のない熱狂」は身を滅ぼすもとである。戦前の日本はナショナリズム軍国主義の熱狂に踊って国を壊滅させた。バブル経済の時代には土地や株、さらにゴルフ会員権や美術品などへの投機に熱狂し、巨額の借金と不良債権の山が残った。
 人々は日々の仕事と生活に追われ、成功すれば気分が高揚し、失敗すれば気分が落ち込んで何かに不満のはけ口を求めようとする。そうした積み重ねで気がつけば国全体が極端に偏った方向に流されることが起こりうる。わたしたちジャーナリズムの自戒も込めて、常に謙虚さと冷静さを失わないよう肝に銘じたい。