■【主張】「百人斬り」判決 史実の誤り広げかねない
 南京で旧日本軍の将校二人が「百人斬(ぎ)り」を行ったとする報道の真偽が問われた訴訟で、東京地裁は「明白に虚偽であるとは認められない」として、「事実無根」とする元将校の遺族の訴えを全面的に退けた。史実の誤りを増幅させかねない判決といえる。
 問題とされた報道は、最初に「百人斬り」を報じた昭和十二年の東京日日新聞(現毎日新聞)の記事と、昭和四十六年にそれを再び報じた朝日新聞の連載記事(中国の旅)である。
 東京地裁は「記事に虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないが、新聞記者の創作とまで認めるのは困難」「現在までさまざまな見解があり、歴史的事実としての評価は定まっていない」とした。
 しかし、朝日の連載記事が書かれた後、ノンフィクション作家の鈴木明氏は元将校の遺族らを取材し、その結果をまとめた著書『「南京大虐殺」のまぼろし』(大宅賞受賞作)で、「百人斬り」報道に疑問を提起した。東京日日新聞の記事に載った将校二人の写真を撮った元毎日新聞カメラマンも「戦意高揚のための記事で、あり得ない話だ」と証言している。
 また、毎日新聞が平成元年に発行した昭和史年鑑『昭和史全記録』は「百人斬りは事実無根」と自社の戦前の報道を否定した。米国にも「百人斬りは捏造(ねつぞう)」とする学術論文がある。
 「百人斬り」報道の信憑(しんぴょう)性を否定する反証は、十分に示されてきた。東京地裁の判決は、こうした最近の実証的な調査研究や当事者の証言をほとんど考慮に入れていない。元将校の遺族は控訴する方針で、控訴審での新たな判断が待たれる。
 「百人斬り」の責任を問われた元将校二人は戦後、中国・南京の軍事法廷で無実を訴えたが、東京日日新聞の記事を根拠に死刑を宣告され、処刑された。現在も、「百人斬り」は中国が一方的に主張する「南京大虐殺(三十万人以上)」の象徴的な出来事として宣伝されている。日本の教育現場でも、しばしば蒸し返されている。
 判決結果にかかわらず、「百人斬り」が冤罪(えんざい)だったことは疑いの余地がない。朝日、毎日両紙は訴訟の法的な問題とは別に、報道機関として自らの報道を謙虚に反省すべきである。(産経新聞2005年8月24日)

 特集WORLD:ちょっと待った/上(毎日新聞2005年8月23日)
 <高まるボルテージ 小泉首相はおっしゃるが、こんな反論も>
 総選挙は公示まで1週間。話題の候補が続々登場したり、新党ができたりと日々、めまぐるしい動きが続く。その間、小泉純一郎首相は印象に残るせりふを残し、そのボルテージは上がる一方だが、果たして本当にそうだろうかと思われることもある。振り返って、立ち止まって、最近の“小泉語録”に識者が反論する。【三角真理、山田道子】
 ◇弾圧した側にソックリ−−作家・米原万里
 ◆「約400年前、ガリレオ・ガリレイは、天動説の中で地動説を発表して有罪判決を受けました。そのとき『それでも地球は動く』と言ったそうです」=8日の衆院解散後の記者会見で郵政民営化実現の意思を強調して
 権力に心の中では徹底的に逆らって自説を曲げなかった科学者ガリレオ・ガリレイに、権力をかさに自説をごり押しし異論を排除する自分を例えてしまう小泉首相って自画像がゆがんでいるのね。よくもまあ、ガリレオに対する名誉棄損でイタリア政府や科学史協会から訴えられなかったこと。彼はワンフレーズ発言が多いけど、少し長く話すと無知と非論理がバレバレになる。ああ恥ずかしい。
 「他人の意見に耳を貸さずに自説を曲げなかった頑固者」という点に共通項を見いだしたのかもしれないけれど、ガリレオは自分と異なる意見の人々と議論を重ねながらコペルニクスが唱えた地動説を発展させていったのね。地動説にくみしたG・ブルーノが火あぶりの刑に処せられてるから、ガリレオは異端審問にかけられたとき形の上では地動説を退けざるを得なかった。「それでも地球は回っている」と審問所で彼がつぶやいたという記録はなくて、18世紀のフランスの作家トレルが広めた虚構なんだけど、どんな強権によっても人の頭や心の中まで支配できないということの例えとして事実以上のリアリティーがある。
 今の自民党内では自由に物が言えなくなってる。議員は首相に従っているフリをしないと生き残れないし、造反者には刺客まで送り込まれる。これ、中世のカトリック教会が自由な発想を異端扱いして封じる手口よね。つまり小泉首相ガリレオよりもガリレオを弾圧した側にソックリなのよ。その自覚がないのも、いかにも世界が常に自分を中心に回っている、天動説を地で行く小泉首相らしい。
 天下り先一つ増やすだけ−−慶応大教授・金子勝
 ◆「郵政事業を民営化できないでどんな大改革ができるんですか」「本当に行政改革、財政改革をやるんだったらば、この民営化に賛成するべきだ」=8日の記者会見などで
 小泉政権は「民営化イコール改革」という幻想を国民に植え付けようとしているだけで、改革に値するものは何もない。自ら掲げた新規国債発行額30兆円枠という公約を破り、その責任もとらないまま、今度は郵政の「株式会社化」だという。その間、債務残高は01年の政権発足時の540兆円から今年3月時点で780兆円にまで膨れ上がった。そして、郵貯簡保に巨額の国債と財投債を引き受けさせて、泥沼にはめてしまった。実際、郵貯簡保国債残高の約4分の1に当たる150兆円余りを持つ。財投債については、08年度から郵貯簡保資金が引き受けないでよいとされるが、現実に郵貯簡保が突然「引き受けない」と言えば債券は暴落し郵貯簡保は自ら大損する。何も変わらない。結局、売るにも売れず引き受けざるを得ないだろう。これで、どうして特殊法人改革ができるのか。
 膨大に膨れ上がった財政赤字対策のためには、国債と財投債の発行額を減らすことこそ抜本的対策である。そのために大口の引受先である郵貯簡保の預け入れ限度額を今の1000万円から例えば500万円にし、肥大化した受け皿に歯止めをかけることだ。同時に、小手先でない長期的ビジョンを持った年金制度改革や税制改革を行うことだ。小泉首相の言う「民営化」では、単に議会のチェックが利かない役人の天下り先をまた一つ増やすだけに終わる。
 ◇まず耳を傾けなくては−−帝塚山学院大教授・小田晋
 ◆「おれは殺されてもいいんだ。それぐらいの気構えでやっている」「おれは非情なんだ」=6日、解散しないよう公邸に説得に訪れた森喜朗前首相に
 小泉首相はもともと異端だったのが、今は異端を排除している。古今東西、権力者は権力が増し独裁的になるとともに、客観的に事態を見る目が曇り、行動に抑えが利かなくなり「暴君化」する傾向があるものだ。小泉首相の場合は、今のポストに就いて元来の性格が表面に出てきたのだと思う。
 人間を体形と性格で分けると、「たぬき型」と「きつね型」がある。自民党の党人派政治家は圧倒的に「たぬき型」。ふとり気味で気配り型なのに対し、小泉首相は義理人情にこだわらない「きつね型」。すなわち分裂気質だ。周囲を気にしないがそれを自分の利点だと信じて突き進む。粘り強く執拗(しつよう)な一方、爆発するときりがない粘着気質も加わっている。
 行動科学的にも興味深い。解散直前、小泉首相は「チキンゲーム」に挑んだ。絶壁に向かって自動車を走らせ、先にブレーキを踏んだ方が負けというゲームだがその際、狂人を装って相手を恐怖に陥れる手法がある。森氏を追い返した小泉首相はその手法を成功させたといえる(これはできレースかもしれないが)。そのような成功体験が続くと自分を神格化しがちである。その点で、小泉首相織田信長と似ている。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」だ。しかし、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という僧侶は「信長はいずれ高ころびに転ぶ(内部崩壊する)」と予想し、実際その通りになった。
 そうならないためにはまず、権力者は人の言うことに耳を傾けなくては。小泉首相はかつて「口は一つだが耳は二つある」と言ったが、本当にあるのか。もう一つは他者に対する同情心と思いやりを持つことだ。これを持たない指導者はどんなに偉大でも、支配される国民にとってはたまらない。

 本音のコラム:利権の再配分 宮崎学 (東京新聞2005/8/11)
 8月8日の参議院での「郵政法案」否決の模様を報道するテレビを見ていてふと旧い歌謡曲を思い出した。それは故鶴田浩二の歌で、確か「…莫迦と阿呆のからみあい…」という歌詞であった。なるほど反対派が既得利権を守ろうとしている姿には、旧い日本の姿を見る思いで、みっともないものではあった。
 一方、小泉派の姿は、反対派よりも醜悪に見えた。それは民営化によって発生する新しい利権へのあくなき執念を見るからである。
 この国は、国鉄民営化、電電公社民営化を経験した。「民営化」で確かに、旧い利権はなくなったかも知れないが、その後新しい利権構造をつくりだしたことはまぎれもない事実である。小泉派の醜悪さは、「改革」なる旗印の下に結局は利権を求める思想の醜悪さに由来する。その点では、「職場が無くなる」とした反対派の方が旗印を示せないだけにまだわかりやすい。
 経済のグローバル化が急速に進んでいる中での「郵政民営化」によって新しく生まれるであろう利権は、米国への身売りという姿だと思われる。それだけに小泉派の執念は、米国への忠誠心の発露であり、そのためさらに醜悪に見えるのだ。
 しかし日本という国の歴史を見た時、明治維新ですら所詮は利権の再配分であったと思われる。日本という国は、利権の再配分でしか動かない習性がある。
 この国はかくも素晴らしい国なのだ。