9月5日付・読売社説 [日露講和百年]「大衆迎合では国の道を誤る」
 大西洋に臨むアメリカ北東部の小さな港町ポーツマスが、世界の視線を集めていた。
 100年前の今日、1905年9月5日、日本とロシアの間でポーツマス講和条約が調印され、日露戦争終結した。
 樺太の南部が日本領となり、遼東半島の租借権や東清鉄道南部支線などもロシアから日本に譲り渡された。
 小村寿太郎外相を全権とする日本の代表団にとって、薄氷を踏むようなきわどい交渉だった。一連の経緯から、歴史の教訓をくみ取ることも出来るだろう。
 日本はロシアに対し、樺太全島の割譲や、賠償金の支払いも求めていた。ロシア皇帝は「1コペイカの賠償金も、一寸の領土も譲渡しない」と強硬な姿勢を崩さなかった。
 交渉は決裂寸前だった。ロシアは、満州中国東北部)に援軍を送って体制を立て直し、日本軍への再攻撃の準備を進めていた。
 日本の戦費は、数億円との見込みを大幅に上回って、既に約20億円に達していた。戦争の継続は困難だった。
 交渉の最終日に、ロシア側から樺太南部の割譲が提案された。樺太を断念していた日本政府には朗報だった。
 日本国内では講和反対論が吹き荒れていた。40億円の賠償を求める声や、ロシアの沿海州も割譲せよといった現実離れした要求が台頭していた。
 講和条約が締結された9月5日に、東京・日比谷では講和に反対する国民大会が開かれた。数万人の群衆が警官隊と衝突し、首相官邸や、小村外相の留守宅、一部の新聞社などに押しかけた。市電なども襲撃を受け、戒厳令が敷かれた。
 政府がこの時、戦争の継続を選択していたならば、日露戦争の「勝利」は「敗北」に転じていたかもしれない。
 感情的な「民意」にあおられて、指導者が冷徹な判断を怠るならば、国の道を誤る。それは、いつの時代にも共通する歴史の教訓である。
 日露戦争の指導者たちは、早い段階からアメリカに講和の仲介を依頼し、同盟国のイギリスとも密に情報交換を行った。講和会議の最終局面で、ロシアが樺太の南半分を譲る方針に転じた、との極秘情報も、ロシアが提案する直前に、イギリスから日本政府にもたらされた。
 ドイツの勝利を漠然と期待して無謀な戦争を始め、ドイツが敗れると、場当たり的にソ連に講和の仲介を求めて断られた昭和の指導者とは、大きな違いだ。
 明治の指導者は、複雑な国際情勢を的確にとらえ、日本の国力を冷静に計算した。これも日露戦争の教訓である。(2005年9月5日1時30分 読売新聞)

 天声人語(2005/9/5)
 百年前のきょう五日、米国東海岸の町ポーツマス日露戦争講和条約が結ばれた。戦勝に沸き立った日本はその後、帝政ロシアの轍(てつ)を踏み、韓国、中国への野望を露(あら)わにして第二次世界大戦に敗れる。その戦後六十年でもある今年、百年の歴史からどんな教訓を読み取るべきか
▼本紙編集委員清水美和著『「驕(おご)る日本」と闘った男−日露講和条約の舞台裏と朝河貫一』(講談社)は、小泉首相靖国参拝をきっかけに、日中韓が反目、かつてを思わせる排外的ナショナリズム高揚に直面する東アジアの現状に、貴重な教訓と反省の道しるべを与えてくれる
▼一八七三年、福島県の旧二本松藩士の家に生まれた朝河は、早稲田大学から米国に留学、ダートマス大学、エール大学で歴史学を学び、エール大学名誉教授となって一九四八年に生涯を終える
▼本書はその朝河が日露戦争当時、米国にあって、ロシアの併合主義に抗して日本支持を米国の新聞に訴え、ポーツマス条約の案文づくりにも影響を与えながら、表舞台から消えた謎を追う
▼朝河の関与については、九八年の本紙通年企画「百億人の二十世紀」で清水さんが紹介、歴史家の論争を呼んだ。本書は外交的配慮から秘められた日本政府とエール大学教授陣の協力の舞台裏を解明する
▼条約の賠償と領土放棄の理念に憤激して日比谷焼き打ち事件を起こす日本の民衆。それに鼓舞され植民地化と大陸侵略に突き進んだ軍部。日露戦後の著作『日本の禍機』でその増長と驕りを戒め、警鐘を鳴らした朝河の存在はもっと評価されていい。

 春秋(日経新聞9/5)
 歓呼の渦から罵声(ばせい)の嵐へ。100年前の9月5日米ポーツマスで日露講和にこぎ着けた日本全権小村寿太郎への国民の評価は、交渉の前後で残酷なほど急変した。勝ち戦なのに賠償金も取れない結果に暴徒の焼き打ちが相次ぎ、小村は「弱腰」の汚名を着せられる。
▼もとより政界や軍首脳にとって条約交渉での譲歩は既定路線だ。戦争を続けようにも兵力・戦費は底をつき、知らぬは血気盛んな国民ばかり。誰が交渉しても世論を敵に回すのは明白で、当初、全権候補だった伊藤博文は周囲の忠告もあり、さっさと辞退した。小村はババを引いたわけだ。
▼今年はまた、その小村の生誕150年。近く出版される二男・捷治氏(故人)の追想記『骨肉』(鉱脈社)には、条約に最も反対なのは自分だと父が家族に打ち明ける場面がある。戦争継続論者の小村にとって世間の「売国奴」呼ばわりは不本意の極みだったが、黙って耐え続けた。軽々に言い訳をしないのが明治魂でもあったろうか。
日露戦争で列強に加わった日本の自信は、やがて過信へと変わり、大陸への侵攻、ついには敗戦に至る。骨太の明治人と、その後の卑小な膨張主義者といった単純な色分けは禁物だが、何がこの国に分相応を忘れさせ慢心を促したのか、100年前の分岐点から見えてくるものは多かろう。

 産経抄 平成17(2005)年9月4日[日]
 日露戦争の講和のため米西海岸のシアトルに上陸した小村寿太郎外相の一行は汽車で大陸を横断、ニューヨークへ向かう。途中、山岳地帯の小さな駅に停車した。すると、窓の外に粗末な服を着た日本人らしい男五人が日の丸を手に立っている。
 ▼小村がデッキに出て問いかけると、彼らは八里ほど離れた山林で働いている日本からの移民だった。小村らがここを通ることを耳にし、枝を切って日の丸を作り、夜通し歩き続けて来たのだという。汽車が動き出すと、五人は頬(ほお)に涙を流しながら一行を見送った。
 ▼吉村昭氏の『ポーツマスの旗』に出てくる胸がはりさけそうな話である。小村はそんな国民のあつい思いを背中に、ポーツマスでロシア側との困難な交渉に臨む。そして一九〇五年九月五日、ようやく講和条約の締結にこぎつけた。明日でちょうど百年になる。
 ▼しかし、その国民の思いが一部で暴走する。交渉で日本が賠償金の放棄など譲歩を余儀なくされたことに対し、東京の日比谷公園で暴動が起き、新聞社や交番などが焼き打ちされた。これも同じ九月五日のできごとであり、戦争を終わらせることの難しさだった。
 ▼それでも講和できたのは、当時の政府関係者や政治家が一致して小村を支えたからだ。元老の伊藤博文は、国民の不満を当初から予測し、渡米する小村を「君の帰朝のとき、我輩だけは必ず迎えにいく」と送り出した。後ろから弾が飛んでくるようでは交渉などできないのである。
 ▼あれから百年、今、総選挙で外交問題はほとんど争点になっていない。拉致や核などの北朝鮮問題や、日中関係についてあつく語る候補者は少ない。「外交を政争の具にすべきでない」というのならともかく、いささか気になっている。

◇歴史から多く学べ−−作家・半藤一利
 今の時代状況は、太平洋戦争への転回点となった1931年の満州事変前後によく似ている。
 明治政府は国家の基軸を天皇制に、目標を富国強兵に置いた。日露戦争は強烈な成功体験だった。すると段々飽き足らなくなってくる。27年後、栄光の歴史だけを学んだ軍幹部が、満州事変を引き起こした。
 戦後は基軸を平和憲法に、目標を経済通商国家に置き、成長路線をひた走った。明治維新から日露戦争までが40年、戦後復興からバブル最盛期までも40年。十数年たって、日本人全体が飽き足らなくなり始めている。
 小泉首相は、現状への不満の一方で国家観を見失い、強力なリーダーシップを求める時代の要請が生んだリーダーかもしれない。国民は「首相におれを選べ」という小泉さんに呼応している。だが民主党は「岡田を選べ」になっていない。
 小泉さんが続投すれば、11月には「自衛軍保有」が盛り込まれた自民党憲法改正草案が正式に決まる。郵政民営化以外は白紙委任だから、次は憲法の番ではないか。行政府から独立した軍をどう統帥するかとの問題から太平洋戦争は起こったようなものだが、真剣に検討されていない。靖国神社は国のために死んでくれる人を祭る場所。小泉さんのこだわりは軍隊を作った時そういう場所がないと困るからじゃないか。
 「何となくおかしい」という感じがある。太平洋戦争前に「米国との戦争」が声高に語られるようになった雰囲気を私はそう感じた。あまり類似点に固執すべきでないが、人間は往々にして同じことをやりかねない。
    ◇    ◇
 東大文学部卒。文芸春秋を経て作家。著書に「ノモンハンの夏」「昭和史」など。75歳。【聞き手・上野央絵】(毎日新聞2005年9月3日)

<上> 熱狂の危うさ昭和に学べ 作家 半藤一利さん
 靖国神社はそもそも天皇家を守るためのお社なんです。神社のある九段上は皇居の西北、つまり外敵が襲ってくる方角で、そこに幕末・維新の動乱期に非業の死を遂げた方の霊を祭ることで、霊が強力な守護神になるという形なんですね。
 ところが西南戦争の後、「国のために戦ったのに報いが少ない」と近衛の砲兵隊が乱を起こします。軍の頭領の山県有朋が、給料が不満で内乱を起こすようでは、天皇のために死ぬのを潔しとする強い軍隊はできないと考え、別格の神社に昇格させるんですね。
 だから、天皇の軍隊としての戦死者しか祭られない。その意味で、「天皇陛下万歳」と死んでいった無数の人々を祭る靖国神社はまさに、軍事大国だった時代の名残を唯一、今に残す場所なんです。
 確かに、太平洋戦争までの道のりが自衛戦争だったという言い方に、理がないわけではありません。軍備増強を進めるソ連に備えるためやむを得ない面もありました。ただ、旧満州中国東北部)は元は中国のもの。公平に冷静に見れば、日中戦争はそれを確保するための侵略戦争ですよ。
 現在の状況は、歴史の転回期という意味で一九三一(昭和六)年に起きた満州事変の前後に似ています。人材面ではとにかく、士官学校、陸軍大学を優等で卒業という優秀な軍人が、中堅幹部として勢ぞろいした時期です。彼らは日露戦争直前に生まれ、その栄光の歴史だけを軍の学校で学んだ苦労を知らない世代。それらが集まり国家をあらぬ方へと引っ張っていった。
 威勢のいいことばかり言う最近の政治家と育ち方が似てますね。戦後日本は、先人が大変な苦労をして高度経済成長を成し遂げ、国民総生産(GNP)が世界一、二位の国家をつくりましたが、彼らはその栄光だけ背負って、何の苦労もしていない。
 明治国家は、国家を動かすための機軸を天皇制に、国家目標を富国強兵に置きましたが、ロシアに勝っていい気になり、昭和になると、目標をアジアの盟主に変えた。さらに、立憲君主天皇陛下憲法の枠外に出して「現人神の天皇」というものにしてしまった。
 戦後は、平和憲法を機軸に、経済復興を国家目標にしましたが、バブルの頂点に達した時期からそれに飽き足らなくなってきたんですね。現在は国家目標がなく、機軸がグラグラ揺れている、非常に困った状況ですね。
 憲法九条を改正して軍隊をつくれば、国は命令で人を死なせるのですから、戦死者に名誉を与える装置として、また靖国神社の出番でしょうね。
 二十年の昭和史から学ぶべき第一の教訓は「国民的熱狂をつくってはいけない」。満州事変後、新聞は局面ごとに軍部の動きを支持し、それにあおられた民衆は瞬く間に好戦的になっていった。
 靖国問題でも「中国? この野郎」という声は格好いいですから。熱狂は、威勢のいい言葉からも生まれると思います。(東京新聞2005年8月13日)http://www.tokyo-np.co.jp/yasukuni/