神戸の暴力団による大学院生殺害事件の判決についての社説から。

 ■捜査の怠慢――命を守る原点に戻れ(朝日新聞)
 なんの落ち度もない27歳の若者が暴力団組員に突然連れ去られ、激しい暴行を受けて殺された。警察は何度も救える機会がありながら、度重なる怠慢でそれを見逃していた。
 神戸市西区で2年前、大学院生が殺害された事件をめぐり、神戸地裁で民事裁判の判決があった。捜査の不手際を認め、兵庫県などに1億円近くの支払いを命じた。判決は対応のまずさを厳しく批判し、第一線の警察官に市民の命を守る重さを改めて突きつけた。
 判決は、まず交番の勤務体制の問題を指摘した。
 被害者の浦中邦彰さんは、見知らぬ暴力団組長にいきなり殴られた。現場から60メートルほどの所にある神戸西署管内の交番に助けを求めた。ところが、交番の警察官2人は仮眠中で起きてこなかった。
 緊急の事態にも速やかに対応するため交番があるのに、勤務する2人を同時に仮眠させるとはどういうことだろう。この時点で現場に出向いていれば、事件は未然に防げたのではないか。
 同署にも何度も通報があった。しかし、緊急事態だという認識がなかった。
 現場に行った別の交番のパトカーは普通なら9分で到着できるところを、17分もかかっている。急行していれば組員らの暴行を止めることができたはずだ。
 浦中さんと一緒にいた友人も殴られ、血まみれになっていた。そんな異常な状況を目の前にしながら、現場にいた18人もの警察官は組員らからの事情聴取をなおざりにした。「けんかだ」という組員の言い分を鵜呑(うの)みにして、車のなかに監禁された浦中さんを捜そうともせず、現場を立ち去った。
 どの対応をとっても、警察官としての基本が守られていない。
 兵庫県警は管内に広域暴力団山口組があり、暴力団対策に力を入れている。しかし、現場の警察官の対応を見ると、暴力団におびえていたとしか思えない。
 警察の基本は市民の命や財産を守ることだ。第一線の交番勤務の警察官はさまざまな事件に出あう。あらゆる事態に備えて訓練を重ねるのは当然のことだ。
 今年7月には埼玉県草加市で、交番に助けを求めた男性が暴力団組員に連れ出され、重傷を負わされた。神戸での事件の教訓は生かされていなかった。
 市民に接する警察官は暴力団から人々を守る義務がある。兵庫県警だけの問題ではない。全国の警察は研修などを通じて、この基本を徹底してもらいたい。
 浦中さんの母親は妊娠中毒に苦しみながら、帝王切開をして命がけで邦彰さんを生んだ。調書のこのくだりを刑事裁判で読み上げた検察官は、感極まって涙を流して審理が中断した。
 一人ひとりの命がいかにかけがえのないものなのか。それを警察官はどれほど重くとらえているだろうか。
 現場にいた警察官のひとりでも、そのことに思いが至っていたならば、この事件は防げたはずだ。

 社説:神戸暴行死判決 頼りになる警察に立ち返れ(毎日新聞 2004年12月23日 0時43分)
 いざという時、市民が頼りにできる警察であってほしい。それが市民の正直な気持ちだろう。
 02年3月、神戸市の大学院生が暴力団に拉致、殺害された事件で、神戸地裁は22日、警察が適切に捜査していれば、被害者の命は救えたと判断して、兵庫県(県警)に損害賠償を命じた。捜査怠慢と殺人の因果関係を初めて認めた、画期的な判決だ。
 大学院生らの駐車方法に暴力団組長が因縁をつけたのが、事件の発端だった。大学院生や付近住民は、110番で急を告げた。
 だが、担当の警察署は現場から60メートル離れた交番で仮眠していた警察官をすぐに出動させず、パトカーの到着も遅れた。この間に、被害者は呼び集められた組員に暴行を受け、車に連れ込まれた。
 現場の警察官は、拉致の情報を共有しておらず、車内を十分確認しなかった。さらに、組員の要求に従い、全員現場を離れた。その後、組員らはさらに暴行を加え、屋外に放置して凍死させた。
 判決は、警察官が生命の危険を予見し、被害者を救出する機会はあったとし「警察官の組織的な対応のまずさ、暴力団への不適切な対応が、被害者への暴行をエスカレートさせた」と断じた。市民感覚からも当然の判決である。
 ことは暴力団と市民のトラブルだ。危険が格段に大きいと判断して行動するのが当たり前ではないか。「あとで出頭する」などの暴力団の言い分をうのみにしたことに、言い訳の余地はない。
 兵庫県警は暴力団事件を多く扱ってきた。組員との接触の中で、慣れ合いがまかり通っていた、と批判されてもやむを得まい。
 今年も、埼玉県草加市で交番に逃げ込んだ男性が、警察官の目の前で集団暴行を受けた。大阪府松原市でも、警察がストーカー被害の訴えを放置していたことが明らかになった。過去の教訓や反省は一向に生かされていない。
 ストーカー事件だけでなく、DV(ドメスティック・バイオレンス)、児童虐待など警察の守備範囲が広がっている。本来、地域や行政で解決する苦情などまで持ち込んで、過剰な負担をかけているケースもある。
 しかし、事件に巻き込まれて救いを求める市民の、最後のよりどころは警察しかない。
 警察が犯罪者に立ち向かってくれる、という期待に応えられないのでは、重大な責任放棄のそしりを免れない。
 警察庁は治安回復を目指して、来年度はまず、警察官を3500人増員するという。一方で、人口減少地域では警察署や交番、駐在所の統廃合計画が進められ、住民に不安の声もある。
 警察の使命は、市民の生命や生活を守ることに尽きる。担当する地域で、制服の警察官の存在を示すことも、犯罪防止や市民の安心のために欠かせない。
 警察全体として、使命への意識をより高めるべきだ。警察官の配置や勤務態勢を十分検討して、信頼を取り戻す努力を重ねなければならない。

 昨日の毎日新聞の夕刊から。

 特集WORLD:年の暮れに思う この国はどこへ… 哲学者・梅原猛さん
 ◆この国はどこへ行こうとしているのか
 ◇生きとし生けるものとの共存を−−来年から仏教に基づく、新たな哲学を作りたい
 年末恒例の「今年の漢字」が京都・東山の清水寺で発表されたその日、京都から日本文化を見つめ続けてきた哲学者の梅原猛(うめはらたけし)さん(79)を訪ねた。冬らしくない暖かな日差しの中、大きな色紙に揮毫(きごう)された漢字は「災」だった。
 ●平和を愛する伝統
 「私は最後の戦中派なんですよ」と梅原さんは語り始めた。1944(昭和19)年、名古屋の旧制八高の生徒だったが、工場で勤労奉仕をしていた。年末、名古屋初の大空襲があった時、仕事をさぼって友人としゃべっていた。空襲後、入るはずだった防空壕(ごう)を見に行くと、直撃弾を受け、一緒に仕事をしていた中学生はみんな死んでいた。
 「そういう体験があるので、戦争は何があってもすべきでないという気持ちが大変強いんですね。ああいう戦争にばく進した日本は、日本の伝統のとらえかたを間違っていたのです。日本の伝統は戦争を礼賛するものでは決してなく、平和をとても愛するものです。平安時代には250年、徳川時代には300年、平和が続きました。だから、私の心の中心には本来の日本に対する深い愛情と、明治以降特に戦争中の日本に対する強い怒りが基本にあるのです」
 縄文の昔から、日本人には一木一草にまで神が宿ると考える多神論の伝統があったという。生きるものすべてとの共存を図る。明治時代から敗戦までの間、それが否定され、国家神道という一神教の時代になったと指摘する。
 「そのような考えなので、私は今、大変憂えていますね。戦争中は国家主義を、戦後はマルクス主義を批判してきました。マルクス主義はつぶれてしまいましたが、国家主義は再び復活しようとしているのではないでしょうか」
 ●義理と人情
 靖国神社も、日本の伝統と相反する国家主義の産物と断じる。
 「私は、どうせなら潔く死んでやろうと思って、特攻隊の養成機関入りを志願しました。でも、口頭試問で戦闘機の名前を一つしか言えず、非国民だと叱(しか)られて試験に落ちました。結果的にはよかったけれど、死に損なっただけに、靖国に行った人への思いはひとしおなのです。しかし、靖国神社にはA級戦犯東条英機(とうじょうひでき)陸軍大将らが祭られています。そこに『二度と戦争はしません』と小泉純一郎首相が誓っても、『弱虫』と叱られるだけでしょう。東条さんは、日本国民だけでなくたくさんの韓国や中国、東南アジアの人の命を奪いました。それを考えると、参拝すべきではありません」
 「歌舞伎では人情を抑えて義理を立てることを劇の中心とします。小泉首相は歌舞伎が大変お好きなのに、歌舞伎の精神をよく理解しているとは言えません。見えを切るというような格好いいところしか学んでいないのではないでしょうか。『人情』においてお参りしたいという気持ちは理解できる。が、『義理』を理解しているとは思えません。例えば、自分の息子が隣の人を殺したら、隣人のことを思えば、公に息子を祭ることができますか。心の中で弔うべきです」