靖国神社参拝問題

 「心ならずも戦場に赴いた人々に哀悼の誠をささげ、不戦の誓いのために参拝している」
 小泉首相は、日中首脳会談において、こう発言した。
 今、日中間における首脳相互訪問や北朝鮮問題に対する協力体制や、あるいは経済的な問題でも、それを促進発展させていく上で、小泉首相靖国神社参拝問題が大きな棘となり突き刺さっている。
 そこで中国側は、靖国神社東京裁判におけるA級戦犯が合祀されており、そこに一国を代表する首相が参拝することは先の戦争を正当化し、美化し、しいては日本を再び軍事大国化し、ファシズム化に向かわせるものだと批判し、それに対して首相(保守派)は「日本では死んだら、みんな平等に神や仏になる」とか、「今の日本の平和繁栄は、国のために命を捧げた英霊達の上に成り立っている」とか、「日本が二度と戦争を起こさないように、不戦の誓いのために参拝している」というふうなことを言っている。
 それは何も国際関係においてだけではなく、(A級戦犯を合祀する、しないという、一宗教法人の問題や、あるいはそもそもの東京裁判の正当性の問題は別として)日本でも少なからず首相の(公式)参拝に反対する声は多いし、私も反対の立場をとる。
 そこで、ふと思ってしまう。
 確かに物事には何でも裏表の二面性がある。光もあれば影もある。誰にでも長所があれば、短所もある。優れていることもあれば、欠点もある そして人はそれぞれの立場や感性や価値観の上に立って、それを見て評価し、批判し、そうすることによって『自分の存在』というものを確認し、正当化し、さらには社会に向かって主張しようとする。
 この問題について言えば、確かに保守派の人達の意見も分からないでもない。しかし逆の見方をしてみれば、そもそも靖国神社という存在そのものが、幕末の尊攘派佐幕派の血みどろの殺し合い、テロの応酬の中から生まれ、明治維新後には薩長閥の下級武士による天皇官僚主義政権を作り上げていく上で、自分たちの権力を正当化し、強化するために作り上げていったものであり、例えば上野戦争でも会津戦争でも函館戦争でも、味方の戦死者は丁重に祀っても、敵方の戦死者は埋葬することすら許さず、「犬や鳥の餌にでもしろ」というような態度だったり、あるいは、神仏分離廃仏毀釈や神社合祀などで徹底的に仏教を破壊し、今で言うならタリバンの大仏破壊以上のことをやった、つまり日本の伝統文化否定し、キリスト教の欧米列強に対抗して作り上げられた、天皇一神教絶対原理主義に基づいて作られたものであり、教育勅語と相俟って、日本人を戦争へと駆り立てていった、何も考えられない、権力者のためなら平気で命を投げ出すことのできる戦闘マシーンへと作り上げていくための、一つの道具であった、しいては日本を破滅へと導いていったものであったこともまた事実なのである。