戦後60年の原点:広島・長崎1945年 8月7日 作戦を続行せよ
 午後、トルーマンは米国に帰着した。前日午前、まだ大西洋上の巡洋艦オーガスタで投下成功の一報を受け、席を立って喜んだ。
 世界に大統領声明が流れた。使用したのは「原子爆弾」で、ポツダム宣言を日本が拒むから落とした、という論旨。そしてまだ抵抗するなら、さらに投下すると警告した。実際グアムの戦略航空隊総指揮官に「別に指示ない限り作戦を続行せよ」と命じていた。次は小倉、または長崎だ。
 東京。新型の爆弾で広島に大被害が出たとの一報は6日に入っていたが、詳細不明だった。7日、深刻な状況が伝わり始め、陸相軍令部総長参謀総長らが相次いで宮中に参内し天皇に上奏した。天皇の憂色は濃く、しばしば状況を下問したが、武官らは十分な情報がなく苦慮した。
 終戦工作を急がなければならない。外相・東郷茂徳(しげのり)の至急電を受けた駐ソ大使・佐藤尚武(なおたけ)は「近衛使節団」の受け入れを再度要請するため、外相モロトフに面会を申し入れた。
 日本はまだ漫然とソ連の仲介に望みを託していた。「日本に即時降伏の意思はまだない」とみたスターリンは動く。ザバイカル方面司令部に9日午前0時の満州侵攻開始を指令した。
 8日午後5時。モロトフは佐藤に会った。彼は佐藤のあいさつを遮り、その場で文書を読み上げた。対日宣戦布告だった。
 原爆投下で米国に戦争終結の主導権を握られた、と落胆したスターリンだったが、日本が降伏しないうちに攻め、戦勝国の地位を確保する巻き返しに出た。(毎日新聞 2005年8月7日 東京朝刊)

 戦後60年の原点:広島・長崎1945年 8月6日 我々は何をしたのだ
 テニアン。午前2時45分、機長ティベッツら乗員12人のB29「エノラ・ゲイ」が飛び立った。
 広島。8時過ぎ。東方で雲が切れ、ティベッツらの眼下に道路や川、港、ビルが現れた。高度3万1000フィート(約9400メートル)。標的の街並みは静かで平和に見えた。
 投下50秒前。ティベッツは乗員たちにゴーグルを掛けるように言った。
 8時15分02秒。爆撃手がスイッチを入れた。同15秒。爆弾倉が開き、原爆「リトルボーイ」は静かに落ちて行った。機体は約5トン軽くなり数メートル跳ね上がった。そして訓練通り、急反転して遠ざかった。
 リトルボーイ相生橋の南東、島病院付近の上空約1900フィート(約579メートル)で爆発した。地上に人工の太陽が出現した。
 スティーブン・ウォーカー著「SHOCK WAVE(衝撃波)」によると、その瞬間エノラ・ゲイの機内は強烈な閃光(せんこう)を浴び、次の瞬間、衝撃波が押し寄せて機体を2回、激しくたたいた。インターコムに乗員たちの絶叫が交錯した。
 巨大なきのこ雲に乗員たちは息をのんだ。地面が沸騰しているようだった。煙が溶岩のようにわき出し、すべてが燃えていた。眼下の街・広島は完全に壊滅したに違いない。
 仕事は終わった。ティベッツは言った。「みんな、我々は歴史上初めて原爆を投下したのだ」
 副操縦士ルイスは書き残した。「我々は何をやったんだ。もし100年生きても、この数分間の出来事を決して忘れない」(毎日新聞 2005年8月6日 東京朝刊)

 ■広島・長崎1945年
 ◇神話が生きる米「地獄」共有なく
 午前8時15分過ぎ。広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイ」機内はパニックに陥っていた。せん光、衝撃波で激しく揺れる機体。窓から広島市街を見た搭乗員は「見ろ、見ろ」と絶叫した。
 きのこ雲は数分間のうちに上空約1・5キロに達した。後日、ある搭乗員は「地獄を見ているようだった」「大釜の中でタールが沸騰しているようだった」と表現。「理解を超えている。われわれは一体、何人を殺したんだ」。搭乗員の一人は震える手で報告書にこう書いた。
 原爆は、現在も米国人の中で大きな比重を占める。99年に米国のメディア団体「ニュージアム」が米国人記者を対象に行った意識調査では、20世紀最大の出来事として「原爆投下」が挙がった。だが、原爆投下をめぐる考え方には、今も日本人と隔たりがある。搭乗員の一人の衝撃が今、大多数の米国人の間で共有されているとは言い難い。
 7月にAP通信と共同通信が日米で行った世論調査によると、米国人では原爆投下を「肯定する」と回答したのは48%と、「否定」の46%をわずかに上回る。一方で「戦争の早期終結のため避けられなかった」との回答は米国で60%、日本で35%。逆に「必要なかった」は米国39%、日本63%だった。
 60年に当たる今年、米国では原爆実験の成功(1945年7月16日)前後から9月にかけ、少なくとも86カ所で市民団体が原爆の不当性を訴える行事を繰り広げている。5、6日にピークを迎え広島、長崎から被爆者を呼んで体験を聞く集会もある。だが、こうした運動が「反核」への大きなうねりになっていないのが現状だ。
 6日にアリゾナ州ツーソンの空軍基地近くで集会を開くパット・バーニーさんは「米国ではいまだに神話が生きている。特に軍隊経験がある人は、完全に原爆が戦争終結を早め、多くの米兵を救ったと信じ切っている」と話す。集会では原爆の悲劇を思い起こし劣化ウラン弾の危険性を訴える。だが「50人くらいしか集まらないでしょう」と悲観的だ。一方で「若者を中心に原爆投下に大きな疑問を持つ国民が増えている」(ピーター・クズニック・アメリカン大学教授)のも事実だ。原爆を特集した米公共ラジオは「世代を超えての議論」を訴えた。【ワシントン吉田弘之】(毎日新聞 2005年8月6日 東京夕刊)