「中国は政治と経済の分離を」・自民党安倍氏
 自民党安倍晋三幹事長代理は3日、大阪市で講演し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝による日中関係悪化を懸念するとの見方が経済界などにあることについて「中国は政治問題を経済に波及させ、目的達成を図るべきではない。政治と経済をしっかり分離しなければ、安定した関係は築けない」と強調した。「首相は靖国の社で戦死者の冥福を祈った。これは国際的な常識だ」と述べ、首相の参拝継続を求めた。 (日経新聞)

 遺族会長の苦悩 「赤紙遺児」とA級戦犯
 日本遺族会古賀誠会長(自民党元幹事長)は、やりきれぬ気分だろう。遺族会への配慮で始まった小泉首相靖国神社参拝が、ここまで中国や韓国との関係をこじらせようとは――。
 思い余って今月11日、「英霊が静かに休まることも大事だ」と語って首相に参拝見送りへの誘いをかけた。しかし、当の遺族会がおさまらない。全国の支部長会議が開かれて、古賀発言は封じ込められてしまった。
 それにしても、古賀氏はなぜ火中の栗を拾おうとしたのか。親中派の立場もさることながら、遺族としての自分の境遇にも根ざしているに違いない。古賀氏の父親は太平洋戦争に召集され、フィリピンのレイテ島で壮絶な死を遂げた一兵士。当時2歳だった古賀氏に父の記憶はない。
 一昨年、レイテ島を訪ねた古賀氏は日本兵の立てこもった壕(ごう)で霊を弔いながら、父が生死の境で何を思ったかに想像をめぐらせた。月刊『諸君!』(今年2月号)でこう語っている。
 「赤紙一枚の召集が来ることによって、南方の、祖国日本からはとてつもなく遠く離れた(略)こういう場所に、いま自分はなぜ来ているのか、と。食べ物もない。戦うための銃は旧式のがあるけれど、弾も届かない。なぜ自分はいまここにいるのか、そしてなぜ死んでいかなきゃいけないのか。戦争というものの残酷さ、それから愚かさをまのあたりにして、父としては非常に無念だったんじゃないか」
 「突き詰めていくとやっぱり政治の貧困なんです。政治の貧困こそ、やはり国を誤らせてしまう。罪のない多くの国民を巻き添えにしてしまう」
 ここに浮き上がるのは「アジア解放のための自衛戦争だった」という靖国神社などとは違う戦争観であり、当時の国家指導者への深い憤りだろう。古賀氏は内心、A級戦犯の合祀(ごうし)に納得がいかないのではなかろうか。
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 「戦争で失った父や夫や息子が、好んで戦争に行ったのではない。命令で止(や)むを得ず戦場に赴き、戦没したのである」。戦後間もない1947年にできた遺族会の前身組織では、事務局長が機関紙にこんな文章を書いた。
 同じ気持ちの遺族はいまも多かろうに、遺族会が「合祀反対」とはならないところに会の複雑さがある。
 それを象徴する存在は、遺族会の事務局長を経て自民党参院議員を3期18年務めた板垣正氏だろう。A級戦犯として処刑された板垣征四郎陸相(陸軍大将)の次男である。
 中曽根内閣の意を受けて、一度はA級戦犯の「分祀」に動いたこともあるが、もともと「東京裁判は認められない」のが強い信念である。95年、村山首相が戦後50年の談話で過去の日本の「侵略」を謝罪したときなど、自民党内で激しくこれにかみついた。
 「アジア解放の自衛戦争」論は、夫や父の死を汚したくないと願う遺族の心をとらえもした。遺族会の複雑さとはそのことだ。
 そういえば、かなり前になるが、A級戦犯のひとりが遺族会のトップだった時代がある。62年から15年間も会長の職にあった賀屋興宣(かや・おきのり)氏だ。日米開戦時に東条内閣の蔵相だったことからA級戦犯として終身刑を受けたが、10年間の服役後に仮釈放されて政界に復帰。その後は自民党政調会長や法相を務めた大物政治家だ。
 そうか、さては遺族会を「正義の戦争」論に導いたのは、賀屋氏だったのか。そう思って氏の回顧録や新聞記事などを調べてみると、大きな見当違いだった。日中戦争を「意味の分からぬ戦争」といい、米国との戦争に至っては、何と無謀なことをと、しきりに断罪しているではないか。
 大蔵省の出身の賀屋蔵相は、日米の開戦に抵抗した。結局、東条英機首相らの軍部に押し切られたのだが、しかし「いくら反対したからといっても、戦争責任者として切腹ものだ」などと自分を繰り返し責めている。
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 東京裁判はやはり問題だらけだとしているが、違うのはその先だ。外国による裁きでなく「日本人は自主的に戦争責任を判断する必要がある。あれだけの日本の歴史に対する汚辱と、国民の惨害に対して、重大な責任者がないはずがない。私はその一人である」。日本人の手で戦争責任者を問えなかったことは「日本国民として遺憾千万」とも書いているのだ。
 遺族会の会長を引き受けたのは償いだったといい、遺族年金の増額などに腕を振るった。靖国神社の国家護持運動を進めるような時代錯誤の面もあったが、叙勲を辞退し続けるなど自責の念を持ち続け、77年に亡くなった。東条氏らが靖国に祀(まつ)られたのは、その翌年だ。賀屋氏がこれを知ったら、果たして何と言っただろう。
 「赤紙」の遺児と戦争責任者。立場を超えて古賀氏と賀屋氏の気持ちには通じるものがうかがえる。あれは自衛の戦争だったとおっしゃる方には、賀屋氏の『戦前・戦後八十年』(経済往来社=絶版)をお勧めしたい。『語りつぐ昭和史2』(朝日文庫)でも賀屋氏の戦争観はよく分かる。(朝日新聞2005年06月27日)